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バイト先で何度目か分からない説教をされ、気が滅入ってしまった。そもそも自分はこういったことができない人間なのだ、という諦念が最初からあって、それが徐々に立証されていくのを奇妙な安堵感とともに見守っているような感覚がある──こう書いてもおそらく同様の経験を繰り返してきた人間にしかわからないだろう。ここ数年の私の生活は、たくさんの「できなそうなこと」がやっぱりできないことを確認していく作業の繰り返しに充てられている気がするが、とはいえそれは多かれ少なかれ誰しも同じなのかもしれない。

今年の夏休みは諸々の書き物の締め切りに追われているのだが、睡眠の乱れにより作業能率が大幅に低下しているので今のところ何も書けていない。原稿用紙1~2枚分のこの日記すら更新が滞っており、己の怠惰さに呆れかえっている。明日からは大学図書館が開くので多少はましになるはずだ。

夜は相変わらず『左川ちか全集』を読んでいた。記憶やイメージの蠢きを濃縮したような彼女の詩は濃密で、それゆえになかなか難解に感じられることが多かったのだが、ふと拾い読みした次の文章は、すっと頭の中に入ってくるような印象があった。

夜がどうしてこんなに好きになつてしまつたのでせう。[…]あらゆるものは夜の暗がりに溶け込んでしまひ、私の耳のそばでは針で縫ふやうな時間がたつばかりです。その中にぢつとしてゐると、私自身も着物を脱いだやうに軽くなつて、がんばりにも、理屈も、反抗や見栄もいつの間にか無くなつてほんとうに素直な善良な人間になるやうに思はれます。他人から投げられたどんな鞭だつて赦せるやうな気がします。誰かが泣いて見ろといへば大声をあげて泣くことも出来ます。[…]
それから又私は木の葉の色や海の暗さや眠つてゐる人のことを考へます。この世の中で一番恐ろしいことは凶悪なことが行はれるのも広い闇の中だといふことに気づきます。夜の向ふ側で、実際はもう起りつつあるのでせう。そしてそれを見張つてゐるのは私ひとりです。

左川ちか「私の夜」(『左川ちか全集』p209-210)

左川のこのような思索は同時に、今夜不眠の中で私が感じていたことでもあった、などと書くのは不遜にもほどがあるだろう。むしろ、彼女のこの文章こそが、事後的に私の中に共振を作り出したのだ。「これこそまさに自分が考えていたことだ」という衝撃が常に驚きを伴うのは、私たちが──あるいは私が──いかに自分の考えていることを知らないでいるかを示すものだ。それはまた、日記で日々の生活を語り直すことの強い動機へとつながるのかもしれない。


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