退職など

 昨日、バイトを辞めた。もうあの人たちと会うこともないのか、と思うと感傷的な気分になりかけたが、よく考えると美化できるような記憶は一つもない。違う部署のおばさんから常にうっすら無視されていたこと、カウンターで働いてたらパートの人に「あなたは客前に立っていい表情じゃない」と言われてバックヤードに連行されたこと、水道の流れる音に紛れて「助けて」と独りごとを言っていたら周囲に丸聞こえだったこと。今思い返してみても胃が痛くなる思い出ばかりだ。

 だが、私は愚痴をこぼすためにこれを書いているわけではない。職場の劣悪な労働環境を告発することにも別段興味はない。大学生協のいくつかのメニューの原価率は押さえているが、それは知らないほうがお互いのためだと思う。つまり何が言いたいのかというと、この先には読むべきことなどなに一つ書かれていないということだ。警告しておくが、これ以降は際限ない自分語り──それもおそらく、後になって公開したことを悔やむような種類の──が続くだけだ。

 世の中には卒業式で泣ける人間とそうでない人間がいて、一般的に前者は嬉々として同窓会に参加しがちであるということは周知の通りだが、私は常に後者であった。私は小学校の卒業式で友人と「クラスの誰が泣いて誰が泣かないか」を当てるという賭博行為に及んだことがあるが、それは今になって思い返せば、泣くどころか自分に起こっていることの意味すら分からない決まり悪さを覆い隠すためのものだったのだろう。
 「意味が分からない」と書いたが、これは「卒業式なんて意味ねえだろ」といったシニシズムの表明ではなく、本当に意味が分からないのである。つまり、昨日まで同じ場所で同じような退屈を感じ続けてきた面々と明日から二度と会えなくなる、ということがどういうことなのか、私には把握しかねるのだ。

 思えば、数年前に祖父母が立て続けに亡くなったときもそうだった気がする。当時はその知らせに何も感じられなかった。全てが現実感を失って、自分の人生から遊離したどこかでの出来事のように思えたのである。その感覚は今も変わっていない。完遂される前に、それどころか始められる前に終わってしまった喪の作業の感触を、今でも胸の奥に感じることがある。

 バイトを辞めたことについて書いていたのだった。無論、それは卒業や親類の死などと並べて語ってはいけないほどに、些細なことだと思う。だが問題は、それらを同列に並べることにいささかの良心の呵責も感じない私の書きぶり自体に現れている。

 昨日、タイムカードを書き終わった後、退職の手続きのために少しだけ事務所に残ることになった。辺りにはよく知らない他のバイトがいるだけで、私は成り行き上その人と話すことになった。大したことを話した訳ではない。ただ、今日が最後の出勤ですと伝えたときの相手の反応を見て、ああ自分はこの人と出会い損ねたのだ、と感じた瞬間があった。

 そう言えば、似たようなことが前にあった気がする。高校の修学旅行で台湾に行ったときに、なぜか現地の子と意気投合し、拙い英語で「帰国したら絶対に連絡しよう」とお互いに誓って、LINEのIDを教え合ったことがあった。だが結局のところ、飛行機に乗って家に帰った後も私は彼女に連絡しなかったし、それは向こうも同じだった。それで正しかったと思う。実際それはその場のノリに過ぎなかったのだし、2000km以上も離れたところに住む相手と再会する機会などこの先一生訪れないだろうから。それは当然のことである。当然のはずなのだが、その子のIDを忘れるまでにはなぜかとても長い時間がかかってしまった。きっと、別離によって本当に奪われるのは、もう少しだけその場にいれば分かったはずの意味そのものなのだ。

 


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