メンヘラについて思うこと
浸透してる言葉だから適応したいと思いながらも何となく使うことに抵抗がある言葉の中に「メンヘラ」がある。
もともと「メンヘラ」という言葉は、心の健康という意味の「メンタルヘルス」がネット上で「メンヘル」と略され、ランナーやシンガー同様に語尾にerをつけて人物を指すようになった言葉であるが、本来持っていたメンタルヘルスの意味がだいぶ抜け落ち、今では、「重い」「かまってちゃん」のようなニュアンスで使うことが多い。
メンタルヘルスの観点で考えると皆何かしら悩みを抱えていて、心が健康じゃない人もたくさんいて、そういう人は本来の意味でのメンヘラなんだと思う。それでも、多少我慢したり抑制したりして生きている中で、自分よりもその抱えているものを、さも大変なように見せられると少しは我慢しなよと思ってしまうこともあるわけで、そういうときに「あの子ってメンヘラだよね」と一言で片付けてしまうととても楽だなぁと思うし、結局自分が入り込めない、あるいは入り込みたくない他人の抱えてる心の不安定さを総括してメンヘラって言うのかなと思う。
そもそもメンヘラという言葉ができる前にはメンヘラをどう表現していたのだろうかと不思議に思うと同時に思い出すのが阿部定事件。これは仲居であった阿部定が1936年(昭和11年)5月18日に東京市荒川区尾久の待合で、性交中に愛人の男性を扼殺し、局部を切り取った事件(Wikipediaより引用)であるのだが、これも現代で言うメンヘラに値するのではないか。
それでも当時はきっとメンヘラという言葉はなかったからかこの事件は「メンヘラが起こした事件」ではなく「阿部定事件」として記憶されている。
ソシュールの考え方でメンヘラを考えても、メンヘラという言葉があるからメンヘラという定義に値するものが存在するのであって、もしもメンヘラという言葉がなかったら、例えば恋人がこうしてくれないからこんな気持ちになってこんなことしちゃったと、自分の感情ゆえの行動を説明する機会が与えられるような気もする。それなのに行動だけを見て「お前メンヘラじゃん」なんて言われた日にはその行動に至った感情は表現する場を失ってしまう。
結局何が言いたいかと言うと、メンヘラという言葉は利便性が高いためにどんな背景もどんな動機も総括してしまうだけでなく、本来心の問題を指すにも関わらず、しつこい連絡や泣き叫ぶなどの行動面を指してメンヘラという語で片付けがちであること。また、それゆえに、本来向き合うべき心の問題に向き合う機会が失われていることを少し寂しく思うと同時にメンヘラという言葉で片付ける前に一旦自分の感情を言語化する機会があったらいいなと思う。
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