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モンテッソーリ・ノート「観察」
見出す
サッカーの世界ではトップレベルにあるイングランドのプレミアリーグ。その中でも常に上位争いをしているリバプールというチームに、昨年日本人選手として初めてEが入団した。当初プレーぶりをチーム・サポーターからは疑問視されていたが、時間がたつにつれて力を発揮し始め、今ではチームに欠かせない存在になっている。
Eを見出したのがリバプールの監督Kだった。Eは31歳でサッカー選手としては若くない。日本人はサッカーの世界での評価はあまり高くない。しかしKは年齢や国籍という先入見に陥ることなく、移籍前のドイツチームでのEのプレー観察し、直にEを見た。見出したのである。
観察
『1946年ロンドン講義録/風鳴舎』のなかで、モンテッソーリは自身の教育法について語っている。
≪私の教育法は子ども自身をもとにして見出されました。・・・起源は子どもにあります。・・・子ども自身から発せられるその現象の観察を解釈する、私たちの能力に基づいています。正しい教育法は観察、事実の観察を基礎としています≫
「発見」という漢字は「発」と「見」からなるが、人や物事から「発せられている」ものを「見」ることを言うのであろう。モンテッソーリは子どもを直に見た。私たちの何倍もの繊細さで「発せられている」ものを「見」た人である。
こども園では「見る」、「観察」するという余裕がまだあるとは言えない。だが少しずつではあるが、知らず見えてくるもの、気づくものはある。
おしごとをやり通し、満足感と、ひとつの自信が生まれた瞬間。
おしごとはしているが何か満たされず、何かを求めている姿。
真の子ども
MIT(東京国際モンテッソーリ教師トレーニングセンター)で学んだことで、印象的な言葉がある。
「今目の前にいる子どもは、暴れていたり、走り回っていたりするかもしれないが、それはその子の本当の姿ではない。真の子どもが現れることを信じて、今の子どもを見ていくこと」
思想・嗜好・習慣
民藝という言葉の由来となる人物である柳宗悦は見ることについて次のように述べている。
≪彼らは見たのである。何事よりもまず見たのである。見得たのである。凡ての不思議はこの泉から湧き出る。・・・大方の人は何かを通して眺めてしまう、いつも眼と物との間に一物を入れる。ある者は思想を入れ、ある者は嗜好を交え、ある者は習慣で眺める。『柳宗悦 茶道論集』岩波文庫p.8≫
モンテッソーリ教師の姿勢を問う言葉でもある。
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