鼓膜が揺れるほど甘く⑤
前回までのお話し
盛岡駅。
日曜日の正午過ぎ。俺は初めて会う女性と待ち合わせしていた。予定の時間よりも少し遅れて到着した俺は、急いで駅の階段を駆け上がり、南口改札のあたりを見渡した。ベンチに座って携帯電話を確認している美女がいた。ちょっと美女過ぎる。さすがにあの子ではないだろう。
他には2人老人がいるだけだった。
少し場所を離れて、携帯に電話してみた。するともう着いてるよと言う。俺はあたりを見渡してみると、手を振ってこっちを見ている女の子がいた。さっきのベンチに座っていた美女だった。背が高く、満面の笑みだった。
俺は恐る恐る手を振ってみた。彼女は笑顔のままで小走りで俺の方に近づいてきた。
「こんにちは」俺は緊張気味にそう言った。
女性は俺の腕を取り、うれしそうに歩き出した。
「まるで新幹線が通過するときの風と音のように感じた。」数年後に、初めての出会いを思い出しこの女性が表現した言葉だった。こうして会うまでにもいろいろ問題があったけど、運命というを初めて実感したのはこの時だった。
日が落ちるときの暗く青い光が窓から差し込む部屋で。
「運命って信じる?」俺は訊いた。
「分からない」と、お前が言う。
でも、この瞬間だけは運命だろ。
そんなロマンチックな会話をした。
出会って30分後にはセックスをして、バスルームで言葉を失うほど疲れきって。俺は運命を信じているんだよ。そう言おうとした時には、お前はもう寝息を立てている。俺は宙に浮いてしまった言葉を持て余しながら、窓の外の暮れてゆく空を眺めていた。
Mちゃんという、20歳年の離れた恋人との出会いはこんなだった。そこから5年、矢のようにまっすぐに付き合った。
・・・・・・
結局のところ、俺は本業を廃業することにした。もういい加減にした方がいい。幸運なことに借金はない。スタッフに退職金と一年分の給料を支払った。その額は結構大きくて、スタッフ達はびっくりしていた。父親の定年退職金より多いと。
でもそれはポルノの仕事で稼いだお金を渡しただけであって、本業だけではとてもじゃないが払えるものではなかった。
社長とまた仕事がしたいです。本業のスタッフのみんなが言った。社交辞令でもありがたかった。みんなの期待を裏切ったことを俺は詫びた。ポルノの事務所で働かせるわけにもいかない。これでみんなとはお別れだった。
専業のポルノ業者となった俺は、毎日無気力になった。しばらく事務所にも顔を出さず自宅に籠っていた。
自宅のPCの前に朝から深夜まで座ったまま。カーテンも開けなかった。食欲もなく水と硬くなったバゲットにバターを塗って食べていた。食事はそれだけ。外に出かけるのはパン屋にバゲットを買いに行く時だけだった。
那月と新しい仕事をするはずだったが、それも辞めてしまった。彼女は俺に毎晩電話をかけてきた。そのたびに「アキラは能力があるのにもったいない。」と言った。
「アキラは天才だと思うよ。なのに自分の才能を活かせていない。」そう言った。
「才能はエロにしかないよ、俺は。」
「それなら、私の役割はあなたのポルノの仕事を伸ばすこと。それでいいでしょ?それに」
「それに?」
「夜の事務所の女の子達は、アキラのために頑張っているんだよ。」
スタッフ達の顔が頭に浮かんだ。私、アキラのために頑張るねと多くの子が言ったのを思い出した。
「そうか、そうだね。」
那月というビジネスエリートの力を借りて、ポルノの仕事をもっと伸ばそうということになった。無学な俺にとって生まれて初めてマーケティングの基本を教わったのは那月だった。
残念なことにこのアイデアの全てがうまく行った。もっと多くの大金が雪崩れ込んできた。これが本業での成功だったらなと、この期に及んでまだ考えている有様だった。
「やっぱりアキラは天才ね」と那月は言ったが、俺はこの暗い才能を自分で恥じた。俺にはエロの仕事しかないのか。
・・・・・・
「アキラのような男にはもう二度と出会わないと思う。良くも悪くも。いや、どちらかというと悪い意味で。」
まだ21歳だった美咲という女性と出会った。
美咲の身長は俺より高く180センチくらい。街を歩けば多くの人が横目で見るような美貌。細い身体、前に突き出した大きな胸、長い髪。少し話をしただけで、頭の良さと女性らしい気配りを目の当たりにして、多くの人が虜になるような女性だった。
美咲と知り合う前、彼女の姉と俺はセフレだった。
美咲の姉だからやはり美女であるわけだが、美咲ほどの存在感はない。ごく普通のどこにでもいる美人。
姉が結婚するのを訊いたのはラブホテルでのことだった。だるいセックスをした後で「結婚するんだよねわたし」と言った。俺はただのセフレだし驚きもしなかった。相手がどんな男かなど質問しなかった。どうせこんな美人を妻にできるような男だ。俺とは次元が違うのだろう。
「いつ結婚するの」俺は訊いた。
「来月、結婚式」
「来月??知らなかった。もう会えないのかな」
「妹の美咲と遊んで」
もう会えないのかって冗談で言ったつもりだったけれど。
その数日後、妹の美咲から電話があった。姉から預かっているものがあるので渡したいとのことだった。近所の喫茶店で会って手渡されたのは、あげたはずの腕時計だった。そんな高価なものではないので捨ててくれたらいいのにと思った。とりあえず受け取っておいた。
美咲とカプチーノを飲みながら、初めてしっかり話をした。姉と似ているようでいて全然違う。頭がよく、終始機嫌よく会話が出来る。俺はすっかり魅せられてしまった。
「姉妹丼になるけど、今度遊びに行きませんか?」と美咲は変なことを言った。
「もちろん」俺は少し照れて言った。「姉妹丼ね」
美咲とは子供じみた付き合いをした。無邪気に明るい美咲と、用もないのに毎日会い毎日電話した。俺が携帯電話を出ない時があると、50件くらい着信が入っていたり。ただ同じ時間を依存しあう関係。
でもやはり肝心なことは話すことがない、表面的な付き合いだったのだろう。
そのうち美咲もまた、結婚すると俺に告げた。
「え、彼氏いたの。」俺は言った。
いつも入り浸っていた喫茶店での話だった。木の椅子はいつの頃からか革のソファに変わっていた。窓の外には低く垂れ込めた曇り空と、濃い緑に生い茂った大きな気が見えた。
「いつ結婚するの。」俺は訊いた。
「来月、結婚式。」
「そうか。もう会えないね。」
「そう思うの?」
美咲は一瞬考えてこう言った。
「わたしアキラと関わる仕事をする気がするよ」
高校生だったなつきもそう言ったことがある。
「それは勧めないけどね。一緒にいられたらいいね」俺はそう言った。
美咲とはその後何年も連絡を取らなかった。SNSがある時代ではないので、美咲がどこでどんな暮らしをしているのか知る由もなかった。
しかし美咲が29歳になった時、再び出会った。
風俗嬢として俺と仕事をしていたあの「なつき」の紹介で、美咲と再会したのだ。なつきと友人だという美咲は、すっかり大人の女性になっていた。
なつきを社長にして、美咲、俺が従業員になった。もちろんポルノの仕事。この会社は2024年の今でも存在している。(そこにはぽっきいがスタッフとして働いていた。)俺は途中でThe Suburbiaというグループで離脱し、美咲も自分の会社を作り大きく育った。
この時の三人のチームは俺の人生を大きく変えるきっかけになった。
・・・・・・・・・
昼の仕事を廃業したばかりのころ、那月とは毎日深夜まで仕事をした。俺は過去への復讐のように。那月は俺には想像もつかないほど暗く燃え盛る感情と戦うかのように。
那月はビジネスエリートだったはずだが、会社を突然辞めてしまった。俺との商売でたった一年で会社員としての年収の10倍を稼いでしまったことも理由かもしれない。
お金を稼ぐのは結構なことだし、俺としては那月をポルノという悪い道に引き摺り込んだ気がしていた。まるで俺と同じ道を辿っている気がする。
「退屈な仕事だから辞めただけ。気にしないで。」と那月は言った。「それにこうして不真面目なビジネスを真面目に取り組んでお金を稼ぐって最高だし。」
「それならいいんだけど。」
「それに忘れてない?私、元風俗嬢なのよ。」
「そうだけど。」
「アキラのためなら頑張るよ」
それでも那月がエリートの階段を一気に踏み外している様に見えて少し心が痛んだ。
そのうち那月とは一緒に住むようになった。
こんなことで本当でいいのかなと思いつつも、那月のような優秀で美しい女とずっと過ごせたらと少し夢を見るようになった。
もし運命とか縁のようなものがあるとしたら。ロマンチックすぎるかもしれないが、それを信じてみたい。
那月とは結婚も考えるようになった。
しかし年数を重ねるたびに関係性はおかしくなっていく。
浮上できないままの人生と、それとは反比例して入ってくるお金。そして思い通りにならない恋愛と。やっぱりこういう生き方ではだめなんだろうなと、劣等感が常に脳裏をよぎる。
最後は、那月と、新しく入ってきたばかりの「なつき」が大げんかになり、那月は事務所からも俺からも離れていった。
【つづく】
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