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1993年のカルティエ④

居酒屋を出てホテルまでのほんの数百メートルの道が、函館の夜の風は酒で温まった身体から急激に体温を奪うようだった。
ウールのパンツは肌触りが温かいだけで、函館港の冷たい海から吹き付けてくる氷のような風は容赦なく足元から身体を冷やしていった。居酒屋の入り口に掛けられた温度計は、マイナス13℃を示していた。このくらいの気温にもなると、防寒具の「縫い目」から冷気が入ってくるのが分かる。

エマは冷たい風が吹くたびに大きな声で悲鳴を上げて、俺の腕にしがみついた。でもそれはそれで楽しそうだった。

俺はこのエマのことで少し動揺したのを少し恥じていた。エマはもう家族もいない孤独な大学生なんだ。孤独な一人の若い女が、俺とこの日本の最果てまで一緒にやってきて、きっと心から楽しんでくれている。昨日の夜もきっと今日を楽しみにしてくれていたに違いない。

俺は、この女のためにこれからの人生の感情も時間も捧げてみようと思った。

少し離れたところにある地元のコンビニに歩いていき、ホテルの部屋で飲むお酒とお菓子を買った。それも大量に。
函館山の絵がラベルになった安いワインと、ガラナのジュース、水、トラピストクッキー、五勝手屋羊羹、それと・・・そのローカルのコンビニは同じ建物でケーキ屋もやっているらしく、その日に売れ残ったケーキが値引きされて並んでいた。

俺は、苺のショートケーキをホールのまま買った。

「食べられるわけないよこんなに」とエマは笑う。
いいんだ、俺は、10代で東京に出てきたばかりの頃、親しくなったお姉さんたちがこうやって食いきれないほどのお菓子を俺に買ってくれた。食いきれないほどの食べ物を並べてくれた。もちろん食べられるわけがない。でもそうしてくれたことが俺は売れしくて、女性と部屋で過ごす時には同じことをする。

きっと、俺は大人になっても同じことを誰かにするに違いない。食べきれないほどのお菓子と飲み物を並べて、食べ散らかしながらそのうち眠るのだろう。

ホテルの部屋に入ると、エマはすぐに机の上の電話を取った。

「ほら、アキラ、聞いていてね」そう言うとダイヤルし始めた。「奥さんと過ごしてる自宅に電話するから」
エマは電話番号を覚えているらしく、何も見ないで電話をした。

電話の向こうで女の声がする。きっと妻なのかもしれない。「●●さんいらっしゃいますか」エマはそう言う。
しばらくして、男の声がする。
「突然電話してごめんね。奥さんきれいな声してるのね」

男が何か言っているようだが聞こえない。

「・・・明日?明日はないよ。別れたいの。今ね、男の子と北海道に遊びに来てるから。その子がいるからあなたは必要ないの。・・・敬語が面白いね。無理しないでね、電話切るから」

エマは俺に目配せして、笑う。
「あのね、男の子があなたに言いたいことあるって、代わるから」

そしていきなり俺に受話器を差し出す。エマは口に手を当てる仕草をして笑ってる。

俺?俺になにか言えっていうのか。
俺は電話を取り、言う。「もしもし」

「・・・はい。」声の高い男だった。訝しげで、理不尽だと言わんばかりの声色だった。
俺は思いつきで言う。

「俺のオンナ孕ませやがってこの野郎」

「え?なんですか?」男が震えた声で言う。でも平然を装っている。妻が横にいるのだろう。

「職場にお邪魔するんで、話し合いますか」

「え?なんですか?」男がまた繰り返す。

「このままじゃ終わらせねえから覚悟しとけよこの野郎」
いきなりそう怒鳴る。妻にも聞こえたらしく、向こうで、誰なの?と言ってるのが聞こえる。そして電話が切られた。

受話器を置くと、エマが大きな声で笑う。

「アキラ、すごい、こういうの大好き」

「さ、ケーキを食べようか」そう言って箱からケーキを取り出し、2人でホテルの備え付けの小さなフォークで食べた。

甘いね、とエマは言う。
とっても甘い夜だよね、と俺が言う。
キザだね、とエマが笑う。

そこからはもう深い話はしなかった。汗をかくほど暖房が聞いた部屋で、セーターを脱ぎ、白いバスローブを羽織った。窓際のソファに座って、明日の夜に泊まる湯の川の温泉旅館のことや、また函館山の麓を散策してみようとか話をしていた。

テーブルの上は食べ散らかしたお菓子が散乱し、ふと窓の外を見ると、函館山の麓の教会が見えた。窓に手を伸ばして触れると、ガラスが冷たさが指先に伝わった。外はさらに冷えているんだろう。

シャワーを浴びてすぐに、2人ベッドにもぐり込んだ。エマのまだ半乾きの髪が冷たかった。
気絶するようにいつも眠る俺だけど、落ちてしまう前にエマが言った。

「産んであげられなかったのが残念だよ」

大きなダブルベッドの真ん中で、小さく抱き合いながら眠りに落ちた。カーテンをしないまま、函館山がこの部屋をずっと見ていた。田舎町に瞬く夜景の欠片が、この部屋を明るく照らしていた。

次の日は湯の川温泉の温泉に泊まった。

エマと一緒に露天風呂に浸かっていると、エマの濡れた髪が真冬の海風で凍っていた。マイナス10度の風が吹きすさぶ中で、それでも温泉に浸かっているとのぼせるように汗が出てきた。

帰るとまた仕事かと思うと、もう帰りたくないなとも思っていた。あの新宿の猥雑な空気が、昨日まで懐かしく思っていたというのに。明日帰れば最初の仕事は47歳の社長夫人のお供をしなきゃならない。

「一緒に函館に住もうよ」
そうエマが言う。

ここじゃ生きていけないよ。俺が答える。じゃあ新宿にいつまでもいるのかって、それももう終わりは近づいているのは知っていた。

そして次の日、東京へと帰る日。

デートも、旅行も、本質は帰るみちすがらにあるよね。女の子とデートした帰り道はいつでも寂しく、つらいもの。帰りの新幹線は眠りもせず、だからと言って会話もほどんどなく。また2人でチョコレートを食べながら窓の外を見ていた。

窓の外は次第に賑やかになって、明るくなっていく。上野の手前まで来ると、乗客は荷物をまとめ始める。東京駅で新幹線から吐き出され、来たときと同じ場所で、エマと別れた。

「明日、アキラの部屋に行ってもいいかな」エマが言う。
「いいよ、来いよ。遅くなるけど」

じゃあねと手を振って、エマが電車に乗り込むところまで見送った。楽しかったね。エマがこぼれそうな笑顔で言った。

楽しかったね。
それがエマと交わした最後の言葉になった。

あの日パンクが部屋に来なかったのと同じように、エマからもう連絡がくることはなかった。
理由は分からなかったけれど、それは「俺がアキラだから」だと強く思った。

別れるのは不倫相手ではなく、アキラなんだよと、函館で思った通りのことになった。

俺は相変わらず每日のように中年女のお供をし、つまらない冗談に笑い、しつこくて脂ぎった擬似恋愛に調子を合わせ、ため息をつきながらコンビニで買ったクリームパンを頬張りながらアパートに歩いて帰る。クリームパンは2個なんだ。両手に持って頬張る真似を1人でしてみたり。

俺はエマがまるで最初からいなかったかのように誰かと恋をして、また別れて。その繰り返し。まるで車のひび割れたレザーシートのような気持ちで、足を引きずるようにいかがわしい夜のネオンの中に消えていく。

そして、俺自身もまた、その街と別れることになった。

カルティエのタンクを見るたびに、今もエマのことを思い出すことがある。
あの小さなフェイスの時計。
何かの下手な感傷かもしれないけれど、46歳になった今、自分の時計としてタンクを買おうと思っている。決して高額な時計ではない。でも、あの日の新宿の焼肉屋でのことを時々思い出すだろう。

カルティをつけていた母のように、強く、美しく生きたいと思っていたあの若い時のエマの姿を。

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