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【Love Rescue】 蝉①

1992年7月。

まだ10代最後の夏だった。
今ほど夏が狂ったような暑さじゃない時代。

木曜日の午後4時45分。いつものように新宿の街を、俺は細く情けない身体に白いリネンのシャツと、白いパンツにローファーを履いて、とぼとぼと歩いていた。

誰かと目を合わせるとたいてい喧嘩になるし、ブサイクな顔をぶん殴られるとさらにブサイクになって商売にならないので、いつもサングラスをしてうつむいて歩いてた。

田舎の母親が心配していて、俺に一度帰ってくるように何度も電話をかけてきていた。
スマホがある時代じゃない。母親は部屋の留守電にいつもメッセージを残していた。その声は努めて明るく振る舞っているように聞こえた。
当然親からの仕送りなんかは一切ない。東京に住民票を移し、父親の扶養からも外れていて健康保険証も自分のものを持っていた。東京でたった一年半の間に数回引っ越ししたので、親は俺の正確な住所は知らなかったと思う。知っていたのは電話番号だけ。
もう二度と田舎には帰らないつもりでいた。俺にはいろいろ忘れたいことが多すぎた。

その半年前の年末に一度田舎に帰ったのだが、そこで偶然出会った年上のナースとセックスしたり、酒を飲んだりしただけだった。懐かしさもあったけれど、つまらなかった。田舎に帰っても、実家ではなくホテルに泊まったんだ。窓からの暗い夜景を見て、田舎にはもう居場所がないと思った。俺の居場所は、あの高層ビルの谷間の雑踏の中にあると信じようとしていた。

新宿の事務所に着くと、エアコンが寒いほど効いた部屋で事務員(というか電話番)をしていた女が1人いた。タバコを吸っては魂みたいな白い煙を吐いて、ソファに座り雑誌を見ていた。
気だるい雰囲気を漂わせてるけれど彼女はまだ21歳。男みたいに短い髪を金髪にして、目の周りを化粧で真っ黒にして。きっと男に生まれたかったんだと思う。女としては生きづらそうなやつでね。でもそういう女に限って爆乳であるもんだ。たぶんEカップくらいはあったんじゃないのかな。それをからかうといつもブチ切れて罵詈雑言を浴びせられた。女であることになにか複雑な感情があったのだろう。

その女が、事務所に入ってきた俺の姿を見て、また深く魂を吐き出し、言った。

「アキラ、彼女いるの」

不思議な響きだった。彼女、か。金持ちのおばさんとセックスしまくってる每日では、彼女という存在がいたとしてもいずれ愛想を尽かされてしまうだろうに。
それでも恋人のような存在はいた。いたんだけどもう半年会ってなかったから既に恋人ではなかったかもしれない。

男になりたい爆乳の金髪女が言う。「今度わたしと遊びに行こうよ」
そう誘われたので、俺も、そうしようかって軽く答えた。
本当は、スタッフ同士で男女関係になるのは禁止されていた。でも別に仕事仲間だしセックスするわけでもないし、社長や先輩に内緒なわけでもないし、別にいいよな。
俺も暇だしね。
そう思って遊びに行くことにした。

今度の日曜日はお互い休みだから、朝からどこか行こうか、みたいに約束をした。

この時はまだ、この21歳のハードなパンク女と、地獄のようなセックスライフと、悪夢のように焦燥感に駆り立てられる恋に溺れるとは想像すらできなかった。

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