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教育についてあ〜だこ〜だ(終)【リレーエッセイふりかえり座談会】


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岩橋由莉→向坂くじら→五味ウララの三人で書いてきたリレーエッセイ「教育についてあ〜だこ〜だ」。2020年10月にスタートし、2021年3月に無事全12回を完走しました。あとがきに替えて、三人で右往左往した約半年を語りあう座談会を行いました。
あらためて、リレーエッセイをご愛読いただき、ありがとうございました!

【第1回】

ゆり たぶん、わたしが1回目でいきなり「信じる力」っていうところを出して、で、自己表現とか、「表現する前にそこを見てくれている人がいるから表現をした」っていうこととか、「信じるって自分の力以外のことを認めることだろう」ということも出したのかな。

「信じる」って、自分の力以外のことを認めることだと思っています。
自分にできることをやって、そこからあとは場に、人に、成り行きに任せる、それが私にとっての表現の場の基本なのかもしれないと思っています。
なので小さい頃からできるだけ自分の及ばない範疇の領域にも触れる機会があったらいいなあ、そのことを知っていることがどれだけその後の人生を生きやすくするだろうか、とも思うのです。(第1回)

ウララ ゆりさんが前、ワークショップで大切にしているのは判断することではなく、まずは「見る」こと、「聞く」こと。みたいなことをおっしゃっていて、それがわりとあとあとにも出てくるように見えます。第一回から最終回まで、一貫して結構これを言っている感じでした。

ゆり そうなんだ、おもしろい。それは意識して書いてないな。何かが言いたいからそれを書くんだけど、「ここを言いたい」って意識してるわけじゃきっとない。だから残ってないんだね、自分の中には。

くじら 漂着したように文章を締めますよね、「今回はここに来たのか」みたいな。

ゆり それが好きなんだよね。言いたいことありきみたいな書き方は不自由な感じがして。

ウララ それ、ゆりさんのファシリテーションのスタイルとも似てますよね。


【第2回】

くじら わたしはたぶん、ゆりさんのその第一回を、「表現のはじまりは、大人と子どもとの関係の中で養われていく」と読んだんですよね。そこを拾って書いたと思います。そうするとやっぱり、わたしはそれを素直に肯定しきれない。じゃあ、大人との出会いにめぐまれなかった子供はどうするんだ、ということを考えてしまう。それで、「いやいや、大人とのいい関係がなくとも表現がはじまってくるっていうことはあるんじゃないですか?」みたいなことを書いたような気がするんですよね。

鳥ごっこをやめてしまった六歳から十八歳までの十二年間で、わたしはずいぶん図太くなったものだと思います。どちらもそれぞれ幼く、いま十八歳を振り返るとちょっと強引すぎてイヤなのですが、でも折れなくてえらかったなあとも思います。(第2回)

ウララ くじらちゃんの場合は「はじまらなかった表現について」みたいなことを言っていて、それでも阻害されても何度でもはじまろうとする表現のしぶとさが好きだみたいなことを言っているなあ、というふうにとらえていました。それに対して、ゆりさんはすごく肯定的っていうか。でもやっぱりそれぞれが、表現する力はそれぞれにあるということを書いている。ふたりに対比がある感じがしていました。

「自己表現」と言われて思い出したエピソードに共通しているのは近くにいる大人の存在です。母親、父親、最後に絵の先生。どの大人も私が気づく前から私のことを見ていてくれた人でした。(第1回)
ちょっと希望的かもしれないですがこう言うことはできないでしょうか。表現のはじまりはときに容易に阻害されるが、それでも表現自身の力で何度でもはじまろうとする。とても繊細ではあるが、同時にものすごくしぶといのだ。わたしの人生の経験からはそう教わってきたような気がします。(第2回)


【第3回】

ウララ それを受けてわたしは、あれ、わたしはもう自分で表現するという前に、名前が表現されてしまっている。名前に影響されて人格が作られているから、わたしという存在がすでになにかを表現してしまっている、ということに気づいちゃった……みたいなことを書いている。ここですでに御手洗先生のことを書いていますね。その人本来の持ち味が現れてくるのが好きだ、ということを、またちょっと違う視点から書いていた感じでした。

つまり、わたしの場合、この変わった名前のせいで目立ちたくなくても一瞬注目を浴びてしまう という経験をずっとしてきている。自己表現とかいうことよりも前に、「私という存在」が「既になにかを表現してしまっている」ということ。そのことを頭の片隅で意識しながら生きてきたように思うのです。(第3回)

ゆり おもしろいね。

くじら こう見ると一巡目は、「表現というものをどうとらえているか」というテーマで繋がってきたような感じがありますね。


【第4回】

ウララ ここでもう「表現」から「ファシリテーションのスタイル」みたいなところにいく。

うららのファシリテーターを何度か経験したことがありますが、そのどれもが遊び心が散りばめられていて、とても軽やかです。深刻にならない、なれない。それは、誰でもできるようでいて実はとても難しいです。うららのこだわりのない器の中で誰もが自由な気持ちで表現できます。(第4回)

くじら 全体的に、わりとゆりさんが舵を切るんですよね。最初だからなのか、年上だからなのかわかんないけど。ゆりさんがなにか投げると、わたしたちは答えることにせいいっぱいで、投げてる場合じゃない。

ウララ でくじらちゃんが投げられてチッて怒って。

くじら なんかゆりさんってすごいイヤなパスを回すんですよね。

ウララ それでそのままわたしにぽーんってなんか違うやつが。

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くじら ここでゆりさんはなんで表現から教育へ話題を転換するんですか?

ゆり 生育歴ばっかり掘ったってしょうがない、みたいな感じがあった。はじまりや成り立ちはそれぞれあるんだろうけど、そしてその要素として怒りもあったりするのかもしれないけど、それよりも、「それが今どういう形となってあらわれているのか」みたいなことが気になる。

くじら 今のことに。

ゆり そうだね。

ウララ なんかあと、二人の表現はそれぞれが行っていた教育の場に似ているね、みたいなことから教育につながっていっているのかな。

二人の表現はそれぞれが行っていた「教育」の場に似ているね。
これってもっというとそれぞれのファシリテーターの存在感そのものを表しているなと思います。(第4回)

ゆり 「表現とは」みたいなところは聞いたから、じゃあ、それを踏まえていまどんな場を持とうとしているのか、教育っていう言葉をどんなふうに思っているんだろう、みたいなところに行きたくなった。そうだね、今にシフトしたのかな。

このままではリレーエッセイやりにくいかもしれないので、最後に私からはひとつ課題を出しておきます。
ま、これを実際エッセイで扱うか扱わないかはお任せします。
二人にとって「教育」という言葉をどう捉えていますか?(第4回)


第5回

くじら これをもらってなんか熱くなってしまったんですよね。

ゆり そうなんだ。

くじら あーだこーだ(※)のときに言いたかったことがバーっと出てきてるんですよね。教育とは何か、っていうことをその段階で一回考えていたので。なので、読んでいる人にちゃんと伝わるようにと思っていたら結構長くなってしまった。

(※「あーだこーだ」……このリレーエッセイの前身となったワークショップ事業部内部の研究会。リレーエッセイのメンバー三人を中心に、周辺の色々な人が参加していた)

ウララ くじらちゃんのこのお醤油のくだり、例えがうまいなあ。

「醤油をとってください」といえばだいたいのばあい醤油をとってもらえますし、もっといえばご存知のとおり「あれとって」とか「あ、ゴメン」とか「ン」とか(!)が通じることはいくらでもあるわけです。(中略)けれど、(中略)詩人を名乗っていながらなんですが、わたしの言葉は伝わらないことが多いです。というか、だから書くことを続けてこられたというのが正しいです。でも言葉の不能は多かれ少なかれ誰しもの問題であるとも考えていて、わたしがワークショップを開いては言葉を書け言葉を書けといいまくっているのはそのためです。(第5回)

ゆり 「不能」。

くじら 不能、っていうのは、言葉でのコミュニケーションが成り立たなくなっていくこと。なにを言っているのかわかってもらえない、相手がいま何に基づいてしゃべっているのかわからないとか、発話されている言葉とは裏腹の意図がなにかわたしをどうにかしてこようとしているとか、なんかその、言葉の意味だけを頼りにできない感じ。

ゆり くじらちゃんはそのことについて書きたかったということ?

くじら 教育とは何か、ということを考えると、わたしにとっては、それが教育をする人とされる人の関係について書くこととすごく近い。そうなると、二者間のコミュニケーションがうまくいくにはどうしたらいいか、あるいはどのように失敗するのか、ということを書かざるをえなくなってしまうんですよね。

ウララ そしてわたしに矛先を向ける。

わたしから見ると、うららさんが自分の開く場で権威的にならないようにするための気遣いはほとんど潔癖にみえるし、ゆりさんのワークショップに参加したことがある方なら、強引といってもいいほどの参加者との対等さに覚えがあるはずです。そういうところに、「教育」全般に対して自分が抱いているような暗い気持ちの気配を感じ取っているのですが、誤解でしょうか? (第5回)

くじら なんかわたしばっかり怒ってるようにいわれていやだなあって……

ゆり だって怒ってるんだもん。

くじら まあ、教育とは学び合うことだ、みたいなことをいわれると……腹が立ったんですよね。

ウララ それは、あれかな。社会一般の通念みたいに言われるからいやだっていうこと?

くじら 断言をするには、教育という言葉が、広くないですか?「自分のやる教育とは」だったらいいですよ。でも、「教育とは」ですよ。あまりにもいろんなことをセンチメンタルに見逃してる感じがして、いやはやって思う。

ゆり 誰が?

くじら 「教育とは学び合いだ」って言ってる人が。教育=すごい、っていうのが根本にある人があれこれ言っていても、信用できない。あと、わからなくないですか? そんなに教育のこと。人生とは、感謝だ。へえ〜。みたいな。

ゆり 感謝、謙虚、努力、みたいな。

くじら はあ、よかったですね、みたいな。で、その人が、「感謝が人生の本質なんだよ!」 って言ってきたら、なんか、ウウッ……みたいな感じになるというか。この座談会、公開するのか………こんな意地悪なことばっかり言って……。
まあ、だから、わたしだけが怒ってるわけじゃなくないですか、っていうことですよ。

ゆり でも怒ってるからね。

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▲こんな意地悪なことばっかり言って……


第6回


ウララ で、わたしのところに、流れ弾がぴゅーんって飛んできて、

ゆり 火の粉がかかって。

ウララ わたしは、「伝える」って言うことはしていきたい、みたいなことをこの回では書いた。

だから、犬を飼ってその子にしつけ(教育)をする、とかはできるけど、私は誰かを教育したいとは思っていない。
教育が「教えること」だとしたら、私は「伝えること」はしていきたいと思っています。(第6回)

ゆり 「教える」と「伝える」は違うんだね。

ウララ うーん。なんかわたしのなかでは違うかな。
「伝える」は相手に選択肢があるような気がするんですよ。それをやるもやらないも自由。わたしは、「こういうのもあります」って提案する、みたいな。「教える」は、やっぱり強要する感じがある。これが正しいよ、って押しつけるみたいな。

くじら わたし、ゆりさんに似たようなこと言われたことあります。
ちょっとドキドキするような現場でワークショップする前、ゆりさんにプログラムを送って見てもらったんですよ。で、「どうやったら詩を書くおもしろさが伝わりますかね?」って言ったら、ゆりさんに、「詩を書くのがおもしろいかどうかは、その人たちに任せてみたらどうだろう」って言われたんです。「わたしはこれがおもしろいって思ってるけど、それをおもしろいと思うかどうかは相手に任せてみる。くらいでいいんじゃないの」と言ってもらって、そのことはそれからずっと大事に思ってるかもしれません。

ゆり わたし……いいこと言ったね!!!!

ウララ・くじら 笑

ウララ わたしのニュアンスもそういう感じです。わたしは、これおもしろいとおもうけど、どう? みたいな。


第7回

ウララ で、わたしが体罰教師に対してちょっと怒りがこみ上げて、いけないいけないと思いつつ、ゆりさんにバトンを。

あの当時は教師も生徒もみんな笑いながら体罰を受けていたのが恐ろしい。暴力は愛情でもコミュニケーションでもなんでもない!!  尻バット(野球部の顧問かつ国語の教師が木製の板で生徒のお尻をフルスイングで叩く。お笑いでもそういう罰ゲームありますよね。あれです。)がイヤでテスト勉強するとかナンセンスすぎる。
はっ、失礼。私まで怒りがこみ上げてきてしまいました。(第6回)

ゆり ケツバットってすごいよね、ほんとにね。
そうだね。まあ、これに関しては、教育という言葉のところに注目したのかな。「教育」というのは専門性のある人だけが使う言葉、というところに対して何か言いたかった。

教育? 学校教育ならいざ知らず、いやそれであったとしても、「人が人を教えたり教わったりする・育つ。育む」現場は、専門家だけのものなの? 他の人はそのことに携わってはいけない?
私はそうではないと思っています。むしろそこにこそ憤りを感じます。(第7回)

くじら ここでゆりさんがうまいなと思うのは、一応憤りの話題で受けつつも、ちょっとかわしているというか。わたしたちが受ける側として教育を振り返っているところから、「いや、する側としてはどうなの?」みたいなことを、もう一回聞きなおしてくる。

ゆり だってもうわれわれはする側に回っちゃってるからね。

ウララ ぜんぜんそんなこと思わなかった。なるほどね。

くじら ウララさんやわたしが言っているような、権威的な人に対する反感、っていうのを、ゆりさんはここで人間関係の衝突全般っていうふうに置き換えている。それで一回怒りっていうテーマを〆るっていうか。

ウララ そういうときに、ゆりさんは逃げるんじゃなくてその場にいる、それが自分の教育の場だ……っていうふうに書いてる。やっぱり「聞く」とか「対話」みたいなことが、ゆりさんの中で教育の場なんだなあと。

もちろんうまくいかないこともたくさんあります。一度では無理なことも。それでもその言葉が出てきたチャンスを逃さないために時間内にできることを精一杯やる。
それをする時のわたしはなるべく技術に逃げずに、自分を安全なところに置かずに、その場に居ようと心がけます。(第7回)

くじら それは第1回で書いてることともつながってますね。

ゆり なんかいい感じだね!?みんな!!

ウララ・くじら ???笑笑

ゆり なんか回ってるじゃない、話が! すごいよ!

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▲「なんかいい感じだね!? みんな!!」「???」


ゆり まあ、教育される側としての気持ちはそりゃああるけど。でも、いまこうやって三人が巡り合っているのは、教育する側に回った者として、だから。そこのところをちょっと聞いてみたかった。

くじら だから、わたしがいじけて投げた球をまともに受けない、っていうのがすごい。

ゆり くじらちゃんやウララがこういうのいやだって思える土壌を作ってくれた人がいた、っていうことを、やっぱり思っちゃうんだよね。

でさ、話は変わるけど、単純に二人は表現が阻害された経験とか、権力を振りかざした教師像とかに対してアンチとかカウンターとかいうところが出ているのだけど、それが嫌なことだ、おかしなことだ、となんで怒れるのかと思うのです。そこを怒れるというのは、反対の経験もしてきたということだよね。それは二人のことをすでに愛しんでくれた他者がいたという経験をしているということだよね。(第7回)

くじら そういうふうに考えたことなかったです。

ゆり わたしにもイヤな先生みたいなのはいるけど、自分にとってはそれがあるから表現教育に行ったみたいなところがあるんだよね。必然っちゅうか、反面教師として、そういう人との出会いみたいなものがある。まあ、結果としてそういうふうにわたしがストーリーを作り直したのかもしれないけどね。
なんかそれをずっと、特にくじらちゃんに言いたかったような気がするんだよね。くじらちゃんは怒りをすごく原動力に燃やしているけど、いまやもうくじらちゃんは教育する側に回りつつある。そのストーリーはそのストーリーとしてあるにしても、ストーリーをとらえなおすことはできる、っていうか。

ウララ 今の話を聞いてて、くじらちゃんの話とゆりさんの話はいっしょなんだろうな、って思って。嫌な人がいたからこそ、今があって。うん。なんか、おんなじことを言っているのかなっていう感じ。

ゆり わたしの方が自己中っていうか、自分が楽しい場を作りたいだけなんだよね。人がっていうより、自分がおもしろいって思える場を人と作りたい。自分だけじゃなくて。

第8回

くじら さっきも言いましたけど、その、第7回のゆりさんの、真正面から受けない余裕の受け。

ゆり いや余裕じゃないよ。

くじら 余裕〜〜ですけどね。ゆりさんから、余裕の第7回が回ってきて、しばらく書けなかった。一週間くらい、なんでこんなことを言うかなーって思ってたんですよ。なんでこんなパスを回すんだろう、この人は。
自分が大切にされた経験について、できれば書きたくないなあ、っていうのがあった。恥ずかしいからっていうのはありますけど、それだけじゃなくて、こと自分は、自分が大切にされてないって思っている人と一緒に表現がやりたい、みたいな気持ちを持っている。大切にされていようがいなかろうが表現はできる、っていうことを、やっぱり根底に持っていて、そこで自分が、「大切にされたから今の自分になれたんだ」みたいなことを言ってしまうと、道義に反するっていうか。それで、「なんか嫌なパスだな〜」って思ったんですよ。

ちぇっ、困ってしまいました。こんなことを言われると困ってしまいます。こちらはそれなりに気合を入れて怒ってきたわけですから、こんなふうに梯子を外して分析されてしまうともう、なにもいうことがありません。(第8回)

ゆり そうなんだね。

くじら 詩を書くことを教育としてやっていていいなと思うのは、ひとりでも書けるところ。人と関係を気づくのがへたとか、人との関係に恵まれてこなかったみたいな人のほうについていたいみたいな気持ちがあって、だから、「それなのになぜそこからわたしを外すようなことをするのか」みたいな気分だったんですよね。「いやあなたは大切にされてきたじゃん」って言われると、そっちに向ける顔がなくなる感じがする。

ゆり でもどう考えてもくじらちゃんは愛されてる人だからさ。いろんな人に愛されてきたっていうことがわかる人だからさ、いやわたしは、って言ったとしても、見る人が見たら、愛されてんじゃん、って思う。だったら最初から表明しちゃえばいいじゃんって思うし。っていうか、どこまで自覚してるんだろうとも思ったし。

くじら 正直、自覚はしていましたけど、自分が教育をする動機とつながってはいなかったですね。だからそこは発見ではありました。

ゆり そこは別に、愛されてるからといって、表現に困難を感じている人たちに顔向けできないということではない、同じでなければいけないわけではないというか。
この回の後半で、わたしはなにかやりたくて〜すでに存在していて、っていうところは、なんか、とても重要な言葉のような気がするけどね。

でも、他の人が作った詩のワークショップを見ていると、こう思います。わたしはなにかやりたくてワークショップを作っているのかもしれない。すでにあるものにバツをつけてきただけだと思っていたけれど、どうやらそれだけでは、いま手元にあるものの説明さえつかないようだ。(第8回)

くじら ちょうど、嫌いだっていうだけじゃどっかで手詰まりになるなっていうのは自分でも思っていたタイミングだったんですよね。それを言われたような感じがしていて。話をそらすようにして、いや、そらすというよりは、根本に戻すようにして? 「嫌いなだけじゃないでしょ?」「やなことばっかりが影響しているわけじゃないんでしょ?」みたいな。

ゆり ネガティブなもの特有の力強さっていうのはあるんだけど、それだけで作られる世界観のワークショップって、ちょっと気持ち悪いときがある。それをあなた自身が持っている分にはぜんぜんかまわないけど、それを元手に場づくりをされたら迷惑だ、って思っちゃうんだよね。

くじら それでわたしたちに、そうじゃないでしょ、っていうのを言いたくなってしまうってことですか。

ゆり 少なくとも、気持ち悪いっていう感じは二人に対してはまったくないから。ネガティブな要素だけで作られているわけではない、っていうか。そのことを言語化して聴きたかった、っていうのは、一番大きいと思う。

くじら わたしがこの回を書いた時も、一応そこだけは受け取ろうと思った、っていう感じでした。「ネガティブな要素だけでなく、やりたいことがあるんじゃないか」っていう投げかけだけはちゃんと受けよう、自分が大切にされた経験については書かないですけどね、みたいな笑。そんな感じで書いた覚えがあります。


第9回

くじら それで、けっこう力尽きてうららさんに回したので、なんのお題もなく。

イテッ! 急に頭になにか当たってびっくりした〜と目を上げると、それはくじらちゃんが、ちぇっと言いながら蹴った小石でした。そんな感じでバトンを受け取ったうららです。うーん、どうしようか。(第9回)

ウララ わたしはね、「私はやはりお二人のように「教育」に対して特別な感情や思いをあまり持ち合わせていないのです。くじらちゃんみたいに熱を持って語るべき言葉がまるで浮かんでこない」というようなことを書いて、最終的にはいい教育には、教える人のがわに「ホスピタリティ」があるんじゃないですか?ということで、ゆりさんに回したんだったかな。

つまり何が言いたいかというと、わたしは人を喜ばすことがしたいだけで、それができるのなら「教育」じゃなくてもいい、ということなんです。だから、教育もエンタメも研究所での事務局業務も、わたしにとってはあまり差がないんだと気づいたんです。
あぁ、なんかようやく自分でも腑に落ちてきた。
それで、わたしが考えるに、いい教育にはホスピタリティがあると思うんですよね、教える側に。ホスピタリティが溢れる人のひらく場は、場も拓けていく気がします。(第9回)

ゆり そうだ。ここはもうほんとうに、ホスピタリティという言葉をうららが見つけたということに尽きるよね。

ウララ すごい時間かかって。友達と話してて出てきたんですよね。

くじら ここでうららさんが、「やりたい教育とは」みたいなところからぱっと離れて身軽になって、「自分がどうありたいのか」みたいな広い問いに急に答えるんですよね。

私は、そもそも人が好きで、仕事も接客業ばかりしてきているし、基本的に「その人のために何かしてあげたい」「その人が喜ぶ顔がみたい」という想いで行動していることが多いと思います。即興パフォーマンスを定期的にしていたときも「このひと時だけでも楽しかった!と思って帰ってもらいたい」「お客さんが笑ったり泣いたりして気持ちが少しでも軽くなってくれたらいいな」とか、そんなことを願ってライブをやっていて、お客さんからそういう反応や感想がもらえたときが一番の歓びで、やりがいだと感じています。(第9回)

ゆり そうだね。その、ぐーって入って行かないようにするという機能を、うららはすごく使うよね。

ウララ ぐーって入って行った先に実はなにもないんじゃないか、とどこかで思っているんですよね。「なにかを見落としてるんじゃないか」ってすごく思っちゃうんですよ。目の前だけ見えて周りが見えてないんじゃないかって感じ。だから一回原点に立ち戻ろうとする。なんでこの話をしてるんだっけ?みたいなところへ行っちゃう感じですね。

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くじら ここでうららさんが一回ありたい姿みたいなところに行きついて、なんかリセットされた感じだったんですよね。すっきりするっていうか、別にこの段階ではありたい姿を見つけたのはうららさんだけなんですけども、なんかわれわれも一回すっきりして最後の周がはじまった。そういう大事な回だったと思ってます。

ウララ でも、くじらちゃんがぐーって行ったからこそっていうのはあるけどね。わたしそこまでの熱ないな、って、なんかすごいなーって、普通に思ったんだよね。
なんで「ホスピタリティ」が出てきたんだろう? まあ、でも、体罰の教師のこととか考えてて、あの人たちは多分自分がやりたいことをやってるだけで、相手がどう思うかとか、相手にどうなってほしいみたいなことはないんじゃないか、って思った。たぶんそのあたりから出てきたような気がする。


第10回

ゆり ここでウララが、「自分の本当にやりたいことって、別に教育とかそういうことでもなく『ホスピタリティ』なんだ」って言ったことで、じゃあ、わたしのやりたいことってなんだろう、ってなった。それまではわりと、色々くじらちゃんやウララにパスを回したり、ふたりの言っていることを解体する、「本当のところどう思ってるの?」って聞くみたいな、そういう部分があったけど、ここで、「いや人にパス回してる場合じゃないわ」みたいな感じで。自分がやりたいことをちゃんと言語化して終わっておこう、みたいになった。

くじら この回、ゆりさん今までで一番語りかけ口調なんですよね。あったよ、とか。

私の中で「教育」というとそこから自由になるというよりもある立派な技術を上から教わるというようなイメージをどうしても持ってしまうのはそういう歴史があるからなんだね。それは西洋と「教育」の成り立ちが違うんだなあ。もちろんこれはあまりにも大雑把な言い方で、もっといろんな原因が絡み合ってるとは思います。(第10回)

ゆり 「教育とは自分で再設定、再定義できること」っていう風に前々から言っていたことを、自分で、そうなんだよな、教育ってそういうことなんだよな……って。

くじら なんかその、「再定義する」っていうことを、われわれは12回かけて延々やっていた、っていう感じもしますね。

ゆり そうだね。ほんとそんな感じがする。

私のとって教育とは、自分の可能性を自分で潰さないってことなんだよね。
常識で縛ってみたり、自分の足を引っ張るのはいつだって安定を求める自分。そいつが必死で変わりたくない! と常に叫んでる。そうだなあ、心細いよね、と話を聞きながらもわたしは人と人との新しい関係を試してみずにはいられない、自分もいる。(第10回)


第11回

くじら こんなふうに回されてしまうと、こちらももう腹をくくって書かなければいけないなっていう感じがあって。

ウララ 「教育に呼ばれる」。

なんでだかわからないのですが、「呼ばれる」という感覚があります。わたしが教育から離れそうになると、断りようのない声がかかって、なんだか戻されてしまう。そんなこんなで、言い訳をしながらここまでやってきました。いわく、「わたしは教育をやりたいわけではない、むしろ教育のことは苦々しく嫌っているのだが、呼ばれてしまったからしかたなくやっているのだ」。(第11回)

くじら 教育やりたくてやってるっていう人のことあんまり好きじゃないって思っていたので、しかたなくやってるんですみたいな態度をとっていたかったんですけど。

ゆり 教育、好きだったんだ!!

くじら ははは、クラスメイトのこと言ってるみたいな。

ゆり 「あいつのこと、好きだったんだ!!」

くじら さっき言った、教育の中にあるコミュニケーションの不能みたいなところを克服していくフェイズが好きなんです。ゆりさんがワークショップのときに、精神的に元気/元気じゃない、身体的に元気/元気じゃないっていう四象限のマッピングをやって、そこで、マックス元気じゃないところにいった人がいて。その人のところにゆりさんが寄って行って、どうですか、みたいなことを聞くんですよね。そこで、その人が、「本当はもっとあっちに行きたいけど、あんまりにも離れちゃうからここにしました」みたいなことを言う。
それに対してゆりさんが、「じゃああっちまで一緒に行きましょう」って言うんですよ。で、ふたりでテクテク歩いて行って、ゆりさんが「ここから見える景色、どんな感じですか?」って聞く。するとその人が、「なんか対岸みたいな感じ」って答える。なんかそういう感じ?
その人が何を感じているか、っていうすごい抽象的なことを、どうにかこうにか一緒に観ようとする感じ、っていうか。そういうところに居たいって思ってるんだな、って思って。

ゆり まあ、実際、わたしのやってることが教育かはわからないけど、くじらちゃんは教育をすることで、生きづらいとかやりづらいと思っている人たちに、なにかサポートなのかケアなのか、そういうことをする場を作りたいと思っているんだね。で、それが教育という場の中で、たとえば勉強を教えるとか、詩を教えるとか、そういうところでやれるなって思ってるんだよね。だから、教育自体がやりたいっていうよりも、そういうことができる場として教育を選んでいるんだね。好きなんだね、教育が! 教育が好きなんだよ!!

第12回

ウララ いま、それ、わたしがインプロ(即興芝居)やってるのとまったく一緒だな、と思って聞いてたんですよ。
インプロも、イメージを一緒にしないとストーリーは作れないから、どうにかこうにか一緒のものを見たい、見ようとする。見れないんだけど、見れるとどこかで思っている……っていうか。それを見たいっていうこと、見ることがすごい楽しいと思ってやってるから、おお、くじらちゃんの言ってること、一緒? って思って、おもしろかったです。それが、わたしにとっては表現というか、即興でやること、とかなのかな。
まあ、でも、そうですね。わたしの場合は「教える」っていう立場じゃないけど、誰かといっしょにそういう場を作る、っていうことにはすごく興味があるし、そういうことはやりたいなあと思っているので。それはワークショップかもしれないし、ライブとかかもしれないし。そういうことなんだな、っていう。

ゆり そうだね。この回のウララは、そこで、プラクティショナーでありたい、実践者でありたい、というところで、その先に教育があるのか? どうなんだろうね? っていうふうに思ってるね。

こんなわたし(わたしの扮するキャラクター)を見て「自分も誰かになってみたい!」とか「自分にもできるかもしれない」と思って、ちょっと勇気を出して楽しくチャレンジしてくれる人がいるのなら、わたしはいつだって一肌脱げる覚悟がある。
だからわたしは、そのプラクテイショナー(実践者)でありたいと思います。まずはそこから。(第12回)

くじら いわゆる教育ではない、っていう感じなのかかもしれないな、と思ってます。そこから新しい教育が起きてくることはあるかもしれないけど。すでにある教育の方に寄っていくことがない、ってことじゃないかな、って思ってる。

ゆり そうだね。そこで、うららなりの教育、うららが作る教育の場、っていうものの形が見えてくるっていうか。そのキーワードとして、「ホスピタリティ」だったり、「実践者である」とか、そういうところが出てくるのかもしれないね。


まとめ


ゆり というわけで、わたしたち、けっこうよくやったよね!

うらら よくやった!

ゆり どうなるという予測もなくやったけど、結果すごくいい形で、今思っていることを言語化していけたんじゃないか。ちゃんと問いを自分で立てて、それに対する答えを一回一回導き出していたのではないだろうか、みんな。

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▲ありがとうございました!

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