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向こうに向かって話す(くじらスタッフ日誌)

きょう(※)はめずらしく中目黒メンバー全員で外での仕事。オンライン研修のテストプレイをするという。テストプレイとはいっても内容はきっちり二時間の研修で、グループディスカッションも紙芝居もある。(一般的に紙芝居は「きっちり」の範疇にはないかもしれないけど)わたしは羽地さん(所長)が研修をする横でパソコンをひらいて補佐をする係。

研修の内容は、「やる気のスイッチ」についての講義からはじまる。おそらく某塾のCMからの引用で、仕事上での自分の「やる気のスイッチ」をみつけるというワーク。資料には「賞賛されたい」「理解されたい」「向上したい」「楽しみたい」というような項目が並び(そこでわたしがすかさず投票機能を起動する)、そのなかから自分の「やる気のスイッチ」を選ぶのだ。

この資料は何回も見ているが、みるたび言葉のイメージのことを考えてまごつく。

「賞賛」という言葉にはどことなく浅はかなイメージ、一過性のイメージがある気がする。逆に、「向上」という言葉にはえらくて明るいイメージがある。ほんとうは賞賛されたいと思っていても、なかなかその選択肢は選びづらいんじゃないか。「向上したい」と思っている気がしてもそれはなんらかに思い込まされているだけなんじゃないか。いちど疑い始めると、もう、きりがない。なのでおごそかに投票を集計し、おごそかにシェアーをする。やっぱり、みみざわりのいいところに集まっている気がする。でも、そう思うのはわたしがひねくれているだけなのかも。「賞賛」や「向上」にこだわっているのはほかでもないわたし自身なのかも……


オンラインワークショップに関する記事をチェックしてもらったとき、羽地さんは「普通のワークショップのことを『オフラインのワークショップ』っていうのはオンラインありきでへんじゃない? 『通常のワークショップ』とか『リアルのワークショップ』のほうがしっくりくる」といった。

そのとき、いわれたとおりさらっと修正しても良かったんだけど、なんとなくくいさがりたくなった。

「いや、通常の反対には非常や異常が、リアルの反対にはフェイクがあって、どちらもなんとなくマイナスのイメージがつく感じがします。オンラインより集合型のワークショップの方がいい、という意味をのせないために、単にオンラインの反対語としての『オフライン』を使いたいのですが」

はんぶんわたしが押しきる形で、「オフライン」が採用となった。これからオンラインワークショップをどんどん作っていこうとしているのに、過分にイメージをまとった言葉を使うのはあぶないという判断だった。


オンライン研修中、ほかのスタッフが参加者補助で走り回ってくれている一方で、わたしは補佐のためずっと羽地さんのとなりにいる。

ふたりしかいない部屋で、羽地さんは画面の向こうに向かって話す。でも手はずっと動いているし、紙芝居を読み聞かせるときには眼差しがなめらかに上下して、画面がスライドでいっぱいになって参加者の顔がかくれてしまうと、ときどき目がだれかをさがすようにさまよう。それでいてずっと笑っている。

手紙を書いている人のようだ、とわたしは思う。有線LANに裏打ちされたハイスピードな同期とはべつのところで、とても遠くの相手に話すように、しかし相手をすぐ近くに感じようと努力をしながら、羽地さんはやる気スイッチや多様性について語る。それが努力のほか何ものでもないことが、胸をうつ。

彼が、冠辞のつかないただの「ワークショップ」が「オフラインのワークショップ」と呼び換えられることにわずかな抵抗をしめしたという事実を、わたしは忘れずにおきたい、ときゅうに思う。あれはしずかだったが、わたしたちのこだわりがぶつかった瞬間だったのだ。これからワークショップや研修がどのように変わっていくのかわからないし、オンライン研修をやり終える羽地さんはずっと昔からそうしてきたような手振りだったが、それでも。

投票機能を出したりしまったりしながら、そんなことを考えていた。


(くじら)

(※)きょう……3/25(書き途中で定時をむかえ、日誌の更新がおくれたため)

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