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うつくしいもの(3)「削いで積み重ねてきたもののうつくしさ」【岩橋由莉連載エッセイ】

先日、同年代の女性と話している時、昨年の紅白で元アイドルだった人が歌っている姿が少々イタかった、という話になった。衣装、髪型、メイクなどが今の年齢と合っていないと感じたそうだ。私も彼女の歌ってる姿を垣間見ただけだけど確かにギョッとしたことを思い出した。

その元アイドルは今は60に近い年齢だが、体型は若い時から変わらずとてもスリムだ。顔もしわひとつなくピカピカしている。自分の生活の中にその人がいたらものすごく綺麗と思うのだろうけど、何かがおかしい。何がおかしいと感じたのだろう、と考えてみた。

ひとつには声だった。前述したように20代の頃からスタイルはあまり変わってないように見える。けれども、声は変化していた。キーを下げて歌ったということもあるけれど、それだけではない。彼女が出している声はやはり歳を重ねた人の渋みや厚み、修羅場をくぐりぬけてきたゆるがない貫禄があるのだ。とてもいい声だと思う。けれどその声に容姿と出している存在感が一致しないのだ。何も知らなかった頃のようなフリルやピンク色のドレス、シワのない顔。


歳をとったこそのきれいさとは何だろうか。遠からず自分のいく道なのだからそこを考えてみようと思う。
60代以上の人たちで自分がきれいだなと思える人の特徴を考えてみる。その一つに無駄なことを省いていく生き方に出てくるきれいさがある。
あれもこれも持っていたいという欲も気力もなくなり、これだけには心血を注ぐ、注いできた、という自負といい意味でのあきらめといえるかもしれない。
そう思った時に一人の女性の顔が浮かんできた。

東京に住んでいた頃、青山のダンス教室に通っていた。そこはバレエの基礎、モダンダンスなど、時間ごとに内容が違っていた。生ピアノをバックにしてレッスンができるというのもウリだった。そして経験者の経歴を問わず、チケット制でどんな人も受けられるものだった。

私はそこで平日の昼間にモダンダンスのレッスンを時々受けていた。その前の時間のバレエの基礎レッスンにミュージカル女優のMさんが通われていた。歌って踊れるミュージカル女優として舞台を中心に活躍されているとても有名な方だ。今でも活躍されている。場所柄、他にも女優さんが何人か通われていたが、私はいつもMさんと出会うのが好きだった。彼女はたとえ更衣室であっても無駄のない静かな動きをされていた。時々同じクラスの若い人が彼女の舞台のチケットを買うやりとりが更衣室でなされていた。その時の声や話し方もとても素敵だった。自然なものというよりも、こういう人でありたいという願いが前面に出ている、そんな声だった。レッスン前、間近にその方の存在にふれることで私の背筋がすっと伸びる気がしたのだ。

その10年以上後、Mさんが和歌山に舞台で来られた。「アプローズ」というミュージカルの主演だった。大女優が若い女優に追い詰められて落ちぶれていく、そんな話だったと思う。そこで彼女は歌い、踊った。身体にキレこそはそんなにないけれど、脚は高く上がり、声もよく届いた。自分の身体の隅々まで動かし方をわかっている、そんな身体の運び方だった。老いていく自分をみつめ、かなしみ、そしてひきうけていく強さに思わず泣いてしまった。あとからMさんが60代だと聞かされ、余計に心が動いた。


昨年、YouTubeでミュージカルの宣伝で彼女を久しぶりに見た。首や二の腕を出し踊りながら歌っていた。その声も身体も鍛えられてきた人のそれだった。確かに前よりも老いている。けれどもそれを補ってあまりあるほどの、削いで積み重ねてきたものの美しさがそこにはあった。

先ほどの元アイドルだって、体型維持やなんやかんやと苦労してきたはずだ。積み重ねてきたのだと思う。なのに一方でギョッとしてしまい、一方に素敵だと思う、その違いは何だろう?
最初の彼女は自分の今をないものにしているように見えてしまったのだと思う。
作り込んだ若さを演出するよりも、その今ある貫禄の声を堂々と前面にだし歌を歌えばもっとかっこよくなるのではなかろうか?

さて、外へ放った矢は必ず自分のところへ返ってくる。
今、自分の持っているものを認めて最大限活かす。それには客観性が必要になる。その客観性をはたして私は今持てているのだろうか。

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(岩橋由莉)

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