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うつくしいもの(1)「地の畏怖とうつくしさ」【岩橋由莉エッセイ】

うつくしい、ということ
それは容姿端麗ということではなく、うつくしさ、というスピリットを感じるもの
そんなもの、ひと、瞬間がたまらなく好きです
わたしにとってなくてはならないものです
それは特別なことではなく、日々の中にあるものだと思うのです
そんなことをそっと手にとるようにことばであらわすことができたら、と思っていました
このことは一方で賭けでもあって、瞬間そう感じることを自分の中であたためて言語化したり、ある程度文脈が整った文章にすることで言い尽くせなかったことがこぼれてしまう可能性もあります
でも、それでもこのタイトルでやりたいと思ったのは、ここ数年あまりにも目まぐるしく動く周囲にわたし自身がふりまわされてしまうためです
日々いろんなことが起こり、そのことに右往左往して感情が目まぐるしく変化します
落ち込んでみたり、浮かれてみたり、また気が塞いだり……
それはそれでふりかえれば愛おしい日々なのだけど、自分がコマのようにくるくるまわっているように感じます

うつくしさを語る時、どうしても自分の内側を見ることになります
それを見つけた瞬間、何をどう感じているのか、自分に問うてみる
自分が大切にしているものの輪郭がうっすらと浮かびあがってくる
そのことで少し周囲の時間から切り離されるひとときを持てたら、そんな願いもあります
この文章は、そんなわたしのとても個人的な時間にお付き合いいただくことになると思います
どうぞ、よろしくお願いいたします

「地の畏怖とうつくしさ」

わたしの人生の中で一番大きな出逢いをした土地は和歌山の「熊野」でした
2001年に十年以上住んでいた東京を引き払い、故郷の和歌山市に戻ってきた時、心も身体もくたくたでこの先どこに進めばいいのかわからなくなっていました
その時旅で「熊野」と出逢いました
山の連なり、大きな岩盤、ひろい川、木々たち
わたしの住んでいる和歌山市内でも、少し走ると山や木、川はあるけれど、そことは何か大きく違うもの、そこへ足を踏み入れるだけで自分の身体が喜んでいるのがわかる、ワクワクが止まらない、
訪れた場所でそんな風な気持ちになったのは初めてでした
それから代々の山主さんと出会い、山を育てることに興味が湧き、いつの間にか木を切って育て山作りをしていく熊野林業を体験する企画をする様になりました
ある時には山の仕事をしている方々にインタビューをさせてもらう機会にめぐまれました
昔、熊野の山奥で小さい頃から木を育てる暮らしをしていたその方は、ご夫婦で苗木を何万本も担いで、何時間もかけて山の中に入っていき、一本一本植えていったのだそうです
祖父が植えたものを収穫し、孫の収穫を思って植える
結果をすぐ出すということとは真逆の仕事の考え方でした
昔から山にいる方たちはみんな人に対してもとてもゆっくりで丁寧で
百年単位で山づくりを考えていることで時間の流れ方が何か違うように感じます

山に入ってゆっくり歩いていると様々な状態で生きている木があります
岩の上で自生した木
何百年も立ち続ける木
雷に打たれた木
地下でほかの木から養分をもらって新芽を出し始めた切り株
枯れかかっている木
その木々の根本には、葉っぱが何十年もの間折り重なり腐葉土となり小さな生き物が育ちます
木は動かないけれど山の中では何かが常に動いています
五月ころの天気のよい日に熊野の山の中に入ると
木の一本一本が一斉に日に向かって何かを伸ばしている気配を感じます
じーーとかゔーーというような音も聴こえてくる気がして、木々の成長のエネルギーの圧を感じることもあります
そんな時期に山の中でひとりになった時がありました 
その時に、今まで感じたことのないものを感じました
聴こえるのは自分の足音だけなのに、なにかも確かにいました
遠くで見ていた時には気づかなかった木の気配のようなものをすぐ近くに感じ
身体がスッと寒くなったり、首元から何か通り抜けるような感覚があって怖いと反応をするようになったのでした

熊野は畏怖という言葉を体感する場所です
人を大きく超えているものの存在を感じずにはいられない
圧倒的なものの前に自分の命のちっぽけさを思い知ります
わたしはこの中ではひとりでは生きられないのだなとおびやかされる感じも存在しています
それと同時に目に入るのは
木々の間から見える日の光、木肌の割れ目、葉の輝き、小さな新芽
何十年何百年と真っ直ぐに根をはやしている姿
命の煌めきのような美しさが身体から伝わってきます
熊野の美しさは畏怖とともに肌から伝わってくるのです

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(岩橋)

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