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初めてのワークショップ開催〜自分というテーマを扱うこと

あやの

 プログラムC「あなたは、あなた自身を生きていますか?アプライドドラマ・ワークショップ – 猟犬ジョンと共に、本当のわたしと出会うための90分」の企画とファシリテーターをしました、あやのです。

 今回が初めての単独ワークショップの開催でした。準備と実践を通じて感じたこと、またこのテーマを扱ったことで気づいたことを記します。

 
 言葉を選ばずに言えば、それこそワークショップには山ほど参加してきた。ワークショップフェス・エントリーのチラシを見たのは、そろそろ自分が発信する側に回りたいと思っていた時だった。いきなり結論めくが、参加してよかった。あの時に勇気を出した自分に感謝している。

ワークショップの準備とは

 正直、もっと簡単だと思っていた。私が行ったワークショップはプレテキストベースのアプライドドラマという手法を用いたもので、これは既存の物語や自分の経験と即興劇を掛け合わせた応用演劇の一つだ。プレテキストと呼ばれるワークショップの台本兼進行表を用意し、場の流れを読みつつ、基本的にはそのプレテキストをベースに進める。プレテキストができれば準備の9割は終わったようなものとも言えるが、それは半分正解で半分は不正確だと思う。

 プレテキストの準備は物語選びから始まる。昔話などの既存の物語を選んでも良いし、自分自身の人生経験から紡ぎ出しても良い。今回私は前者を選んだ。私の場合扱いたいテーマは漠然とあり、それに合った本を探した。これならいいかもと思える本と出会うまでも一苦労だが、多くの学びがあったのは出会ったその先だった。既存の本には作者がいて、当然ながらその人の価値観が反映されている。どんなに共感できようともそれはやはり自分の言葉ではない。自分が伝えたいことや創り出したい空間が先にあって、それを創造するための助けとして最適な物語選ぶ。その上で、自分の言葉で伝える。この姿勢が大切だと思った。アプライドドラマの実践を習うと「物語はきっかけにしか過ぎない」という言葉を聞くことがあるが、その意味がここで初めて分かった。

 プレテキスト自体も、作っては直し、作っては直しと何度か書き直した。自分で読み上げたり、仲間とのシミュレーションを通じて気づいたことを反映したり。ワークショップは人を交えた事前の実践準備の効力が大きいと思う。人とやってみて分かることがある。

 ワークショップに欠かせないのは、場所、人、道具だ。そのすべてに準備が必要だ。道具については、シミュレーションをするごとに、あれが必要だ、これが必要だと思いもよらなかったものが増えていった。いや、思いが至っていなかったのだ。事前の実践は大切だ。

 一つのワークショップには、それを構成する要素一つひとつに思っていたより多くの準備や推敲が必要だった。また、ここまでやったら終わりということは無く、その質はずっと高められるものだとも思った。苦労話というよりも、何か繊細な工芸品を造るような感覚があり楽しかった。その作品を準備段階でどこまで研ぎ澄ませられるかはファシリテーター次第だ。

ワークショップの実践

 物事はプレテキストどおりには起きない。いや、半分は起きて、半分はそうでもない。その場の参加者の雰囲気、発言、行動を感知して柔軟に進めていく必要がある。それこそが醍醐味で、その場で立ち現れたものこそを取り入れて、現在進行形で作っていくのがワークショップなのだと思う。思ったより盛り上がったワーク、時間がかかってしまったところ、色々出てくる。今回は90分なので入れなかったが休憩を入れるタイミングも見計らう必要がある。実践して思ったのは参加者の自由に委ねることも大切だということだ。コントロールしすぎない、目を配らせすぎない。参加者各々が持っている関心やテーマと、ワークショップで提案されたものとを融合して、参加者自身が表現していくに委ねる。表現の自由だ。

 当日行ったワークの一つは、二つの選択で迷ったときにそれぞれの選択肢を支持する声が両側から聴こえる、“選択の小径”というものだった。シリアスに進むかと思いきや、参加者はそれぞれの側に引き入れようと気合いを入れた掛け声をかけてくださり楽しい雰囲気となった。参加者から笑顔が見られたときには安心した。人は、人が笑ってくれると嬉しいんだなと、当たり前のようなことに改めて気づかされた。

 自分が本当にしたいことやなりたい姿を自由に制限なく書き出すワークは、早々に書き終えている人と、もっと時間を長く取りたかったという人と様々だった。セルフワークは当日の参加者の空気感をつかみつつ、偏らないようにワークの長さや深さを調整していく必要がある。

 ワークショップはその場で起きることによる変容が醍醐味だと思う。その場で立ち現れた様々な表現を宝物のように見つけ出し、魔法使いのように自然かつ最適なかたちに発現させられる、そんなファシリテーターでありたい。

“選択の小径”ワークのようす
ティッシュのように動くワーク
参加者の笑顔に心がほぐれた


自分というテーマを扱うことについて

 今回私は、「本当の自分」をテーマにした。本当の自分がどういう存在なのか、何をしたいのか、今の自分が本当の自分だと言えるか、本当の自分を生きているか。このテーマを出した時から、はっとする、ぐっとくる、という言葉を頂いたと同時に、「本当の自分」という捉え方自体が一つの世界観であって、その世界観に必ずしもみんなが共感するものではないという意見も聞いた。自分というものが果たして存在するのかも捉え方次第だと思うが、各々が捉えている自己感覚を言葉にするとしたら、最も近いのは“自分”という言葉ではないかと思う。ただ、その意味における“自分”を取り扱うことは、あまりに個々人の存在そのものや、人生で採用している世界観を取り扱うことに近く、ファシリテーターは教訓めいたことや、自分の世界観の押し付けにならないように細心の注意を払う必要があると感じた。私は、何であっても存在した時点で常に何等かの意思表示をしている・あるいは意図せずとも何等かの意思があるように伝わってしまうと考えているため、すでにこの世界に存在している私たちに、完全に中立・中庸の存在となることは難しいが、極力無色透明で押し付けのない、ただそこで起こることが自然に起こる助けとなるような、そんな存在として立てるよう、努める必要があった。どうすればよいかという問いに解はない。ただ実践を重ねて、自然な在り方を、その場その場で見つけていくのだと思う。

ワークショップに込めるエネルギー

 準備段階で「あやのさん自身が楽しんで」と言われたことを思い出す。なかなか顔がこわばったり、途中で心配になったりするのだが、参加者や仲間が笑顔にさせてくれて心がほぐれるとその後の進行がより自然にできたりする。そういう時、場の雰囲気が良くなる。ファシリテーターがその時に発している空気感は、ワークショップの雰囲気に諸に影響する。同じことを言っても、喜びや楽しさからそれを発しているのか、不安でそれを言っているのかでは伝わるものは大きく変わる。

 ファシリテーターの立場でワークショップを心から楽しめるときってどんな時だろうと考えた。一つはワークショップの内容に心から自信が持てたときだと思う。これは面白い、伝えたい!という気持ちが心底湧いたとき、それは不安や懸念を超越して、このワークショップをすることが喜びであるというエネルギーに変わるのだと思う。いつもその状態にもっていけるようにしたい。

仲間で、一人で、

 練習会やシミュレーション、そこでの意見交換によって、何度もワークショップの内容を練り直すことができた。これは一緒にワークショップを開催した仲間がいたからできたことだ。仲間と交流し、一人の時間にかえって練る。実践して、また練る。人と、自分と、その往来と融合で結晶化できたワークショップだった。開催にあたって関わってくださったすべての方に感謝と親愛の気持ちが生まれた。そして、相手の存在を尊重・尊敬することの大切さを改めて感じた。初めての自分のワークショップの開催を、こうした仲間とこの機会に行えたことに感謝している。この経験を一過性のものにせず、この宝物のような経験を機に今後もワークショップを開催していきたい。

プログラムC ファシリテーター あやの

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