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うつくしいもの(5)「自分の言葉を語る美しさ」【岩橋由莉連載エッセイ】

私は小さい頃、石を裏返すことが好きな子どもでした。
小学校は和歌山城の近くにあって、バスで帰る子どもたちは天気がよければ帰り道に二つ先の停留所を目指して、和歌山城の中を通り抜けていきます。
そこでは、鳩を追いかけたり、虫を取ったりとそれぞれ好きなことをして道草をしていきます。
私は時々ひとりで石を裏返すあそびを好んでやっていました。
道の端っこや人の通りそうもない場所の石を裏返すのです。
ここで裏返さなければ、石はまた何百年もこのままかもしれない、とか
この石は百年ぶりに裏返ったのかも、とかそんな空想をしながら行っていました。

裏返すと、石は少し湿っていて表の感じとはまたちがったものがあります。きれいな模様がついているのもありましたが、わたしはきれいと感じるものとは違う、他の石にはない、その石らしさというようなものが感じられるものを好みました。他の人から見たらあまり大差ないものかもしれないのですが、自分なりの石を選ぶ基準があったのだと思います。何個か見ているうちに気に入ったものを見つけると、わざわざ人目につくところに置きなおしていました。そうすることで、だれかがまたこの石を見つけて、そしたらこの石はまた移動することができるかもしれない。


今考えるとなんだかヘンテコな子どもだったなと思います。
思えばこの時から、自分なりのものの見方を持とうとしていたのかもしれません。

最近、和歌山の口承の昔話を自分の言葉に直す、ということを各地のワークショップでやっています。語りを文字で残したものを、もう一度「自分の言葉」に変換して語るのです。

がい太郎

(原文)
むかし防己(つづら)の歓喜寺(かんきじ)のはたで牛飼うとる人があって、その牛を川のはたへつないでおいたら、河童が来て、
「あいつ、牛のやつを引っこんでやろう」
と、こう思うて、牛のしっぽをつかまえて、水の中へ引っこみにかかったんやそうな。その時に、牛が大きな力を出してはねあがったんで、河童が水の中からとび出してしもうたんやとお。頭に皿あったの、その皿の中の水がこぼれてしもたんで、河童が力ないようになって、牛のしっぽへぶらさがったまま、歓喜寺というお寺の庭まで引きずってこられたんやとお。その時に、歓喜寺のおおっさん(和尚さん)が、河童を捕えて、
「お前は今までたいそういたずらしたけど、これからもうこの所へ来て、いたずらしたらいかんど。きょうは助けてやるからな。それで、この豆をやるから持っていって、これをまいておいてはえたら来てもかまんけんど、この豆はえるまではこられんぞ」といって、いったあった豆やったんやとお。河童それもろうて帰って、川のはたへまいておいて、いつまでたっても豆がはえんので、とうとう河童は負けてしもて、防己へは河童こんようになったとお。

(和歌山県西牟婁郡すさみ町大谷 戸台誉雄)紀伊半島の昔話より

言葉の違いとは、地域差もあれば、年代、性別によっても違いますし、ご両親の出身によっても違うと思います。
また言葉とは関係性を表すものなので、お話を数人の前で話すのか、大勢の前で話すのか、知っている人が多いのか、いないのか、そんなことでも違ってきますね。

和歌山の昔話を一つ選んでは、このお話を自分の言葉に直して語り直してみましょう、と今まで大阪各所、和歌山市内、東京と4ヶ所でやってみましたが
たとえ同じ地域で行っても、だれひとりとして最初から最後まで同じ言葉だった人はいませんでした。たとえ同じ地域に長く住んでいるものどうしでもです。
このことは、わたしも、実際にやってみた本人たちも驚きました。

「自分の言葉に直す」
結局は、この言葉をどう捉えるのか、ということなのかもしれません。
人によっては、大勢の人にわかりやすい言葉に直すことだったり、自分が昔聞いた昔話のように直すことだったり、自分の仲間に語るように直すことだったり、と様々に解釈されました。
最後には直したものを読んで発表してもらうのですが、声で発しているうちにまた変化していくのです。人に語っていく間に、どんどんより自然な「自分の言葉」に変わっていくことが何度もありました。
実際に話のどこを印象的に捉えたかで、語り方が変わりました。このお話全体を語ろうとする人、和尚さんを強調したい人、河童を誇張したい人、場所を大切に思う人、それによって言葉の間合い、テンポ、強弱が変わり、同じ話のはずなのに、まるで違うお話を聞いているような気持ちになりました。

人に聞いてもらうと、自分が意識していなかったことも聞いてもらえます。
わたしが語った時には、「岩橋さんの言い方で、和尚さんの暖かさが伝わってきた」と言われてはじめて、自分がこのお話の中で和尚さんを重要視していることに気付きました。あまりに当たり前のことのように思っていたのですが、他の人は違っていたことにその時初めて気づいたのでした。

また、地方では方言に関する課題があります。
自分の言葉が東京などの中心地で話されている言葉とは違っていることはよく知っています。なのになかなか直すことができないのです。
朗読でアクセントやイントネーションなどを気にする人が多いので、言葉を間違って発していないかとビクビクしながら朗読される方もいます。
「自分の言葉で語る」この作業には間違いなどありません。強いていうなら、自分の言葉にどれだけ近づけるかだけです。これは答えがその人にしかないので誰も触れることはできません。

昔話を自分の言葉に直すことは、昔話を研究しておられる方たちにとっては、そう簡単に自分なりに解釈されては困るという想いもあると思います。学術的な裏付けなしに自分の言葉に直すことは研究者にとってはあまり推奨したくないことだと思いますが、私は自分の言葉をあらためて意識する、自分の言葉にアイデンティティーを持つという意味では、一度やってみることをお勧めしたいです。なまりなどのことばの違いを気にすることなく堂々と声に出して語る経験はむしろ必要なのではないか。そもそも口承とは語る人によってある程度変化していくものなのだろうと思っています。

今、わたしは自分の言葉で語ってもらうことでその人らしさを皆で味わい、みなでことばにしていく、この作業にハマっています。
自分の言葉をつむぎ、語ろうとする姿は老若男女どなたもとてもうつくしいです。

自分の声にコンプレックスを持っていたり、自分が人とは違うイントネーションで喋っていることにひけめを感じている人は案外多くいらっしゃいます。
石をひっくりかえすように、いつもは裏にある面を表に出してみた時、案外違う魅力が潜んでいるのかもしれません。

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(岩橋由莉)

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