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実験ワークショップ「声の響き・ことば・身体を遊ぶ」超個人的開催レポート:「自分の言葉」に関するあれこれ(くじら)


こんにちは。プレイバック・シアター研究所の向坂くじらです。

2/24に、実験ワークショップ「声の響き・ことば・身体を遊ぶ」の第二回が開催されました! わたしは案内役を担当させていただいていて、もうひとりの案内役、岩橋由莉さんといっしょにワークショップを作っています。

響きワークショップチラシのコピー

第二回はゆりさんがワークを担当。そこで起きたことについて、今日更新のエッセイにも書かれています。そこで、わたしも同じ場所にいた案内役のひとりとして、ごく個人的なレポートを書きました。ぜひ読みくらべてみてください!



「自分の言葉」とはなんだろう


ゆりさんのワークで出た指示は、ただ「昔話を自分の言葉に直してください」ということでした。「自分の言葉」とは何かという説明は一切されません。

配られたのは、「がい太郎」という昔話。和歌山に口承で伝えられた物語で、配られた文章も語り口調になっています。

「頭に皿あったの、その皿の中の水がこぼれてしもたんで、河童が力ないようになって、牛のしっぽへぶらさがったまま、歓喜寺というお寺の庭まで引きずってこられたんやとお。」

(「がい太郎」原文)

こういう文章を手探りで「自分の言葉」へ書き直していきます。



「自分の言葉」というタームに対して、わたしにはいつもなんとなく疑いがあります。とくに、「自分の気持ちは自分の言葉で説明しなさい」みたいなことを教えられるときには顕著です。

同じ場所に居合わせ、同じことを経験した人間がふたりいたとします。そこで生じるふたつの感覚が固有であることに引きくらべて、言葉はあまりにも固有ではない、というところが、わたしの気にかかります。

仮にこのふたりが、同時に経験したことについて一字一句同じ感想を言ったとして、両者はそれぞれ異なる自分の感覚について話しているのですから、同じ言葉の奥でも意味がずれあってくるわけです。しかしふたりは同じ言葉を使うことがあります。そうでなくては伝達ができないからです。これが言葉の「固有でなさ」です。

言葉はあらかじめ話者のあいだである程度共通のものとして共有されていて、語義もある程度約束ごととして決まっています。使う単語を共有し、その語義を共有し、文法を共有してはじめて、わたしたちは言葉を用いることができます。そうでなければ、互いに異国語を語るときのように、言葉は意味を成さなくなります。
では「自分の言葉」とはなんでしょうか。言葉は「みんなのもの」であってはじめて役割を果たすのに、そのなかに「自分の言葉」と呼べる部分は存在しうるのでしょうか。

(感覚が言葉より先にあるのではなく、言葉が先にあり、ある言葉を当てはめたときにはじめて感覚が感じられるのだ、という人もあるでしょう。そのばあいは感覚さえ固有でない、みんなのもののなかから借りてきたものということになるでしょうか。ですがこれは、言葉にならない感覚を言葉であらわそうとしたことがあれば、たいへん直感に反すると思います。まだ言葉になっていない感覚、どうやっても言葉にならない感覚、というものが、「言葉より先にある感覚」の存在を直感的に感じさせるのです。なので、わたしのばあいは感覚が先に立ち、言葉が後からそれを表す、という順序を前提としています)


こういった考え、つまり「感覚はあまりに固有であるのに、それを言い表す言葉の方はそうではない」という考えは、わたしにとっては根源的なさびしさに肉薄してきます。自分の感じたことをそのまま言い表すこと、また逆に、相手の感じたことをそのまま言い表してもらうことはできない。仮に同じ言葉を語っているように見えても、それは便宜上同じ語彙に収斂しているだけで、実際にはなにも共有できていない。

詩人という肩書きを自覚的にもつようになって数年経ちますが、詩を書くときにもこのさびしさが解消されるわけではありません。ただちょっとこのさびしさや自分の感覚のひどい固有さにつきあってみようかな、という気分になるだけです。それは癒しといえば癒しであるし、なんの役にも立っていないということもできます。



ゆりさんは、ワークショップで声のことをよく扱います。そのとき、「自分の声」というキーワードが出てくることがあります。ゆりさんは「自分の言葉」というときと同様、「自分の声」というタームの意味もはっきりと定義することはありません。
ですが、傍で見ている一参加者として、無粋ながらもあえて「ゆりさんのいう『自分の声』」を言葉にするとしたら、こんなかんじでしょうか。身体とつながった声、いまの自分でないものになろうとする意図のない声、その人特有の存在感が反映された声。なんとなくですが、ゆりさんはそういうところに目線をあわせようとしているようにみえます。

「その時頭に皿があってその中の水がこぼれてしもたんで、ほんでかっぱの力がでえへんようになって牛のしっぽへぶらさがったまんま、歓喜寺っていうお寺の庭まで引きずってこられたんやて。」

(ゆりさんの書きなおした「がい太郎」)

では、「自分の言葉」とはなんだろう?
いざ作業にとりかかってみると、その難題にぶつかります。けっきょくわたしが書いたのは、「ある特定の状況で自分が使いがちな口調」というようなもの。これが「自分の言葉」かと言われると、いまひとつ断言できない気がします。こんなふうじゃない言葉をしゃべっているときもたくさんあるし、これだって誰かから借りてきた言葉なような気がします。

「したら、あ、河童の頭んとこには皿があんだけど、その皿んなかの水がこぼれちゃうわけ。したら河童は力が出なくなって、牛のしっぽにぶらさがって、さっき言った歓喜寺っていうお寺があるんだけど、そのお寺の庭まで引きずられてきちゃうのね。」

(くじらの書きなおした「がい太郎」)


と、悩みつつ発表したのですが、ほかの参加者のみなさんの発表を見て、とてもびっくりしました。まず、敬語で書いている人がいたこと。「自分の言葉」といわれて敬語で書く、というリアクションは、わたしからはぜったい出てこないと思います。また同様に話し言葉風に書いている人もいたけれど、それもまた「えっ、そんなところに情報を増やす!?」「そこでそんな語尾にするの!?」という衝撃の連続でした。おもしろい!

「とび出したひょうしに、頭のてっぺんの皿の水がこぼれてしまって、河童は動けなくなり、ただただ牛のしっぽにぶらさがったまま、歓喜寺というお寺の庭まで引きずってこられました。」


「かっぱは頭にお皿がのっかってたんだけど
そのお皿の中の水がこぼれちゃったもんで、
河童は急にヘナヘナと力がぬけて、牛のしっぽへぶらさがったまんま
歓喜寺のお寺の庭まで引きずられてきちゃったんだって。」

(参加者の方の書きなおした「がい太郎」)


ここでわたしが思い至ったのは、わたしたちはみんな常日頃からたくさん言葉を使っている、ということでした!!

こうあらためて書いてみるとあまりにも普通のセンテンスでゾッとするのですが、でも、わたしにとってはとても大きな発見でした。日常生活を送っているだけで、言葉にはクセや特性が出てくる、それはこれまでその人がたくさんの言葉を聞いたり語ったりしてきたことの表出なのだなあ、と思いました。

極端にいってあらゆる伝達が失敗であったとしても、それはそれとして、日々たくさんの伝達が行われ、たくさんの言葉が用いられている。それだけのことをあらためてとてもおもしろく感じたのです。

わたしはもっぱら詩のワークショップを作ったり詩を書いたり読んだりして暮らしているので、どうしても普通の会話から離れた、表現としての言葉に目がいきがちです。ワークショップをつくるときにも、わざと先に日常の言葉にひっぱられないようなアナウンスをしたり、ワークをしたりします。
でもそれ以前にまず、日常生活というものはわたしの想定以上に言葉にあふれているんだろうなあ、ということを、なんとなく感じたのでした。その積み重ねが無意識に違いとなって出てくるのは、とっても劇的なことに思えました。


とはいえ、その細かな違いを「自分の言葉」というのかは、正直なところまだわかりません。かぎりない数の伝達の失敗がある、ということをとてもうれしく思ったことにはまちがいないけれど、でも失敗は失敗であるとも思うし……
さいわいこのワークショップはあと2+@回開催されるので、あたらしい実験のなかでまた考えてみたいと思っています。


↓このワークショップの詳細


↓コロナウイルスの流行拡大に伴うオンライン開催のお知らせ


(くじら)

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