見出し画像

田島環さんのこと vol.2[向坂くじらの場合]

環さんのワークショップについて、ゆりさんからバトンをもらって書くことになりました。去年オンラインでやっていただいたワークショップ「イメージをプリズムに」のなかで、よく覚えていることがあります。環さんが、「美しい」という言葉をよく使うこと。そしてそれが、日常生活のなかで聞いたり使ったりする「美しい」という言葉とは、ほんのすこしだけずれているように思えることです。

「イメージをプリズムに」では、オンラインでつながりつつ、それぞれが手元で作業をします。絵具をつけたビー玉を転がしたり、同じ家の絵をいろいろな画材でくりかえし模写したり……基本的にはそれぞれの作業工程は画面から見切れていて見えないのですが、時折誰かが、自分のタイミングでなんとなく画面に向かって作品を見せます。そうすると、環さんが「ああ、いいですね、美しいです」と軽くいうのです。これが本当に軽く、「赤いです」とか「甘いです」とかいうような調子なのが、街中を飛んでいくビニール袋を見たときのようなかすかな違和感を頭に残します。
そして、折り紙を木の形に切り抜いてトレーシングペーパーに貼り付ける、という作業のときには、「ああ、美しいですね。二つ並んでいたら、まあ、美しくはなってしまいますからね」といいました。わたしはしばらくそのことで頭がいっぱいになってしまいました。その、新鮮な言い切りのすごさ。それでいて、もともとわたしもそのことを知っていたと思わされるような説得力。「美しい」からといって、それは自然発生的に、避けようもなく起きてしまうことであって、そこがゴールではないよね、というような口調でもありました。
それは、いったい、なんのことを言っているのだろう?
日常的な「美しい」という言葉と、環さんの「美しい」とが、そこまで大きくずれているわけではなさそうです。けれども、たとえばわたしたちが山や空を見て「美しい」というときのあの茫漠とした感じとはちがう、標的へ銃をかまえたような「美しいですね」が、ときどき環さんの口からは発せられるのでした。

環さんは、わたしたち参加者が作業をしているときに、「いうともなくいう」みたいな指示の出し方をします。これもまたおもしろいです。ひとりひとり手元の作業に没頭している中、特段その注意を引きつけることもなく、「ビー玉を増やしてもいいですよ」とか「いまの三倍くらいの時間ビー玉を転がすと、また違うものが見えてくるかもしれないですね」とか、ぽそっと置くようにいいます。わたしは環さんのワークショップ中、ほとんど画面を見ていないので、頭の横らへんでそれを聞き、聞いていないような顔をしているのですが、つぎの作品ではしっかり三倍くらいの時間をやってしまいます。本当はしっかり聞こえているのです。これがなんともいえず不思議で、わたしはもっぱら先生らしき立場からの指示に対しては反射的に反発するたちなのですが、環さんのこの、どこからともなく聞こえてくる天啓のような指示には、なんとなく従ってしまいたくなります。
環さんからの天啓が降ってくる(?)タイミングが、ちょうど自分の手の中で起きている単純作業がマンネリ化してきているところに合っている、というような呼吸の妙もあるのかもしれません。ですがそれ以上に、「環さんが見せようとしている世界を、わたしも見てみたい!」と思わせる、なにか覇気のようなものを、環さんの声や、言葉尻、なによりzoomでつながると環さんの背後に貼ってあるたくさんの作品たちが、発しているように思います(環さんは、ビー玉のワークのときにはビー玉の作品を、糸のワークのときには糸の作品を、自分でもかなりの数実作してみてからワークショップに臨んでいるようで、背景に貼ってあるのはいつもそのときどきのワークで事前に作られた作品たちでした。環さんは決してそれをお手本のように扱うことはないのですが、その作品たちはやはり自分の手のなかで起きているものより上等に見え、二十回ほどの作業をつづけるモチベーションの支えになりました)。
その覇気のようなものと、環さんが「美しいですね」というときの確かな足取りとのあいだには、やはり関係があるように思えます。


研究所のワークをはじめとする表現やアートのワークショップにあちこち行ってみたり、自分でも詩のワークショップを作ったりするようになって何年か経ちます。そうすると、しばしばこんな問いに直面します—表現であればどんな表現でもよいのか。

表現するための講座や場所をひらくときに、「すべての表現はすばらしい!」という考え方が行き過ぎるあまりに、なんだか締まりのない場になってしまう……というような状態を見たことはないでしょうか。もちろん、表現は根源的に自由なものであり、その場所がどんな表現でも排斥せずに受け入れるという意志を示すことは大切であると思います。ですが、そのことと、「なにがよい表現で、なにがそうではないか」という基準をまったく捨ててしまうこととが、しばしば混同されます。
もっと悪いのは、「どんな表現でも表現であるだけですばらしい!」という言説が、しばしば表現自体が自己目的化した場において、参加者をモチベートするためだけに使われることです。「(ここは表現を目的とした講座であり、あなたが表現をして帰ってくれないと講座の体裁が保たれなくなるので)どんな表現でもOKだよ!」というのは、どこかばかばかしいと思います。わたし自身も、依頼をいただいたワークショップで子どもの興が乗らないときなんかは、焦ってそういうことを言ってしまいたくなります。ですが、経験上、そういう欺瞞には子どもの方が目ざとく気づきます(大人も気づくけれど、その上で付き合ってくれるだけかもしれませんが)。できるだけそういうことは言いたくないものです。

とはいえ、「これがよい表現である!(=それ以外はよくない表現である!)」と講師が信じ切っていて、それだけを教え込む……というような場は、それはそれで退屈で、ときに暴力的にもなるでしょう。

環さんは、そのどちらでもありません。わたしなどは、「これはわりとよくできたな」と思った作品を揚々と画面に向けて見せたら、環さんに「ああ……シャープな感じですね」といわれて、すごすご引っ込めたりしました。否定されたわけではないし、褒めて欲しくて見せたわけではないのですが、環さんの心が動いていないことは伝わってきて、「あ、これはちがったんだな」となる。その塩梅で、「正解はないけれど、ともかく心が動くかどうかはある」というような、環さんの基準のようなものが確かにあるとわかってくるのです。何をしても怒られたり排斥されたりすることはないけれど、しかし、よいものとそうでないものとが確かにある。


わたしは詩のワークショップをやりつつ、自分でも詩を書きます。自分の制作の過程では、ワークショップのときにはそんなに姿をあらわさない、作品に対するきびしい批評の眼差しがあらわれてきます。それをそこだけに押しとどめておいてもいいといえばいいのですが、なんとなくそれだとウソのように感じるときがあります。それは、ワークショップに参加してくださった方から、「もっといい作品を書きたい」「いまの自分の作品では満足がいかない」というエネルギーを感じるときです。そうすると、こちらも出し惜しんでいるのが恥ずかしくなって、言えることはぜんぶ言おう、できるだけそこについていこう、という気になります。
なかなかその線引きがむずかしい、というのが日々感じていることです。それで、環さんが確固と持っている「美しさ」の輪郭のようなものには、まぶしい憧れを持ちました。

環さんのワークショップを受けてから、こう考えるようになりました。表現の場では、いかにそれが一回きりの体験を目的としたワークショップであったとしても、「よい作品を作る」という共通認識はあるほうがよいし、わたし自身、日頃の自分の美学のようなものをすでに持っている。しかしそれを参加者に押しつける必要はないし、かといって出し惜しむ必要もない。講師はただ、静かに自分自身のある基準を持っているだけで、それが参加者にとっての頼もしいガイドラインになるのではないでしょうか。

ということで、わたし自身、とっても影響を受けたワークショップでした!
ウララさんに回します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?