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脳は悪夢の忌避術を知っている(2024/09/13)

・嫌な夢を見た。確か、嫌な人と一緒に崖みたいなところに立っていると、嫌なタイプの車に乗った嫌な人が降りてきて、私を蹴るという嫌な夢。情景と人物に耐えきれず、思わず目を覚ましてしまった。時刻は朝の5時くらいで、少しだけTwitterを見たあとにまた眠くなってきた。しかし、嫌な夢の記憶がまだ頭の中を浮遊している状態で、ここで寝てしまうと夢の続きを上映されてしまうのではないか、という不安に襲われた。もし同じような夢を見てしまうとまたうなされることになる。いっそ、このまま朝日を拝んでしまおうかと考えているうちに入眠していた。


・再び夢を見た。この夢は先ほどの続きだ。崖に落とされたあと、下にあった海水浴場の更衣室に入る。そこは男女でぎゅうぎゅう詰めの状態であり、着替えるのも一苦労だ。窮屈そうに体を捻りながら着替えていると、突然殴られた。まただ、と思った。嫌な夢はそのまま続いている。私は殴られた衝撃で血を流している。更衣室は静寂に包まれ、すべての視線が私に向けられている。殴ってきたのはサングラスをかけた若い男性で、右手を背中に回して何かを隠している。ナイフかもしれない。そう思って逃げようとしたが体が動かない。男は右手を勢いよく私に突き出した。刺されるのを覚悟していたのだが、彼が持っていたのはナイフではなくて花束だった。

・「お疲れ様です」男は丁寧に発音すると、ここでカットがかかる。そう、これは映画の撮影だったらしい。私はよく分からないままに祝福を受け、そのまま目が覚めた。とりあえず、一連の最悪な出来事は全て映画の脚本だったというオチらしい。これは自分なりの防衛本能なのかもしれない、と思った。嫌な夢を改竄するために、あえてこういう演出にしたのだろうか、仮にそうなら自分で自分の脳を褒めたい。悪夢の忌避術としてかなり有効的だ。


・もしかすると、自分が映画を見ているときに物語の不合理性やバッドエンドを「これは映画である」という膜で覆うことで娯楽として昇華している態度が潜在的に現れたのかもしれない。映画という膜で包むことで、鬱展開や理不尽な行為を自分の中に取り込みやすくする。北野武の暴力描写なんかは、映画として見ることでそれを単に暴力ではなくて、芸術や死のメタファーとして理解することができる。

・そういえば、100分de名著のフロイト『夢判断』の回を見てから、夢日記をつけることにしたのだった。久しぶりに日記帳(夢用)を開くと、初日で更新が止まっていた。三日坊主以下。フロイトもびっくり。

・本って読みたいという欲が湧いたらすぐ取り掛かった方がいいのかもしれない。フロイトの『夢判断』も当時はめちゃくちゃ読みたかったけど、現在は熱量が下がっている。読みたい!と思ったら即本を開いて、読み始めてみる。齋藤孝もそんなことを言っていた気がする。なんかの本で読みました。


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