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【短編】小学生の頃に受けたテストにおける机の不均等性に引っかかるようになったら終わり

小学校の時の話をします。ふと思い出して、自分の中で腑に落ちていないことに気づいたのです。みんなも経験してきたように、小学校ではテストがあります。科目は国語算数理科社会で、表がカラーでびっしりあるのに裏は半分くらいしかなくて、早く解き終わった人のために裏面には点数の反映しない自由記述のコラムみたいなものがあるやつです。私の学校でもこのようなテストが定期的に行われていました。とってもまだ小学生ですから、中学のように厳密なテスト規則があるわけでもなく、カンニングの注意喚起もほとんどしないような軽いテストでした。小学校の教室は隣の人と机がぴったりくっついている配置になっているので、一応カンニング対策のためにテストのときは机の間隔をとるように指示されていました。私が今でも腑に落ちていないのはこのシステムです。理想としてはほぼ正方形の教室を、それぞれの生徒の机が均等になるような配置にしたいはずです。ちょうど方眼用紙の交差点に生徒たちが座るような形です。ですが私の教室ではそのような陣形は作れませんでした。というのも、小学校の教室では黒板が軸になっているので、全体的に前に詰めており、教卓から見て後ろのスペースが空いているのです。授業参観のときにお母さんお父さんが立つところです。そのためテストで「間隔をあけろ」と指示されると、最後列の人たちは下がれるけれど、最前列の人たちはあまり机を移動できないのです。ちょっと言葉では伝わらないかもしれないので図解します。

右を教卓として、後ろに行けば行くほど間隔が広くなっていました。小学生が教室を俯瞰でみて偏りを指摘したり修正するかというと、そこまで頭は回らないでしょうし、気楽なテストでそこまで厳かにやらないし先生もそんなことは気にしていないでしょう。私も当時は何も思いませんでした。しかしいつからでしょうか。小学生の頃に受けたテストにおける机の不均等性に違和感を覚えるようになりました。今更こんなことを気にしたところで、無意味という三文字を叩きつけられるだけですし、今から教育委員会に乗り込んで均一にするように発議する気もありません。ただ腑に落ちていないということを誰かに伝えなければならないと思い、この場を借りて文章を書かせてもらっています。共感してもらおうという気持ちは一切ありません。なぜ私はこんなことで悩んでいるのでしょうか。小学校なんてもうとっくに卒業したのです。いつまで過去を顧みているんでしょう。

脳を覚ますために洗面所に行きます。鏡を見ると、当たり前ですが自分と目が合いました。私の顔は小学校の時よりも老けていて、あの頃にはなかった髭がうっすらと生えています。私が愛用しているこの顔は不均一です。右目は少したるんでいて、左頬には小さなほくろがあります。不摂生がたたったのか、唇の右下のはにきびができています。私は自分の顔にも、不均一であるというようなむず痒さを覚えるのでしょうか。そう考えると、鏡に映るものが酷く恐ろしい肉塊のように思えてきます。

世界はアシンメトリーでできています。私は無意識に完全を求めるような人間になっていました。三島由紀夫が金閣を完璧な美と表現しましたが、世界はそんなに完全ではありません。小学生の私は、完全とか不完全とか、そんなことすら考えずにテストを受けていました。不揃いの席に座って必死に筆算をしていた私はもういないのです。小学生の頃に受けたテストにおける机の不均等性に引っかかるようになったら、終わりかもしれません。さようなら。

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