真夏の夜のジャズ(4Kリマスター版)
バート・スターン監督『真夏の夜のジャズ』(Jazz on a summer's day)を観てきました。
ニューポート・ジャズフェスティバルはモントレー(米)、モントルー(スイス)と並ぶ三大ジャズフェスの1つ。本作は1958年7月、ロードアイランド州ニューポートにおける第5回目の様子を撮ったもの。
当地は全米オープンテニス発祥の地であるとともに、ヨットレースのアメリカズ・カップでも有名。映画には、セロニアス・モンク、アニタ・オデイ、ダイナ・ワシントン、チャック・ベリーらのステージに、アメリカズカップや海辺で遊ぶ子ども、岩礁の上でプレイするジャズメンらの映像が挿入される。
1958年は昭和33年。我が国は高度成長真っ盛りも、未だ鼻を垂らした子どもがいて、道端では傷痍軍人が乞食をしていた。自分は37年生まれだが、それでも地方にはまだいた。
フェイクかも知れないが。
『真夏の夜のジャズ』を観て、まず思ったのは昭和33年のアメリカの豊かさ。演者も観客もファッショナブル。
ニューポートが避暑地すなわち富裕層の街ということはあろう。しかし客層は白人ばかりじゃなく、黒人やアラブ系も。1958年ならまだ黒人差別が激しかったから、これは貧富や人種を飛び越える音楽の力か。
◆アニタ・オデイ
村上春樹イチオシの彼女。そのボーカルは安定感抜群。
分厚くて、真っ直ぐ伸びる。圧延鋼のようであり、だからこそ転調が生きる。
「ビリー・ホリデイからアレサ・フランクリンへ至る道の途中にダイナ・ワシントンがいる」。そう言ったのは誰だったか。
◆ダイナ・ワシントン
ステイブルからシャウトに至る流れは、ビリー・ホリデイからアレサ。
その底にはまごうことなき黒人の血が流れている。
次いでジェリー・マリガンのカルテットが突っ込んでくる。スピードスター。
◆ジェリーマリガン・カルテット ー As catch can
カッケー!
これはハードバップだが、いっぽう、
◆サッチモことルイ・アームストロング
1958年当時、すでにマイルスはアルバム『カインド・オブ・ブルー』で、コードに捉われないモード奏法をやっていた。フランスのヌーベルバーグ等を通じて、ジャズはアートとしての地位を確立していた。
いわばサッチモは前時代の人だが、日本のジャズもこれ。60年代になっても我が国は、サッチモライクなジャズであった。
マイク・モラスキー早稲田大学教授は『戦後日本のジャズ文化 ー 映画・文学・アングラ』(青土社)で指摘する。「日本のジャズは10年遅れていた」と。
が、サッチモのジャズは日本の芸能界を作ったと思わせる。服部良一や渡辺晋(ナベプロの創設者)、そしてクレイジーキャッツやドリフターズ。
服部良一は戦前上海でジャズを学び、渡辺晋らは戦後、占領軍相手の酒場でプレイ。いずれもサッチモと同時代のジャズであり、彼の喜劇性・コメディ性がクレイジーキャッツらコメディバンドに通ずる。映画を観つつ、そう確信した。
トリは世界最高のゴスペルシンガー、マヘリア・ジャクソン。
7分10秒からの「主の祈り」で映画は終わる。
天にまします我らが父よ
願わくは御名をあがめさせたまえ 御国を来たらせたまえ
御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ
我らに日用の糧を、今日も与えたまえ
我らに罪をなすものを我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ
我らを試みにあわせず、悪より救いだしたまえ
国と力と栄とは 限りなく汝のものなればなり
アーメン
神様、いろんな気づきを与えてくださり感謝いたします。
◆予告編
この夏、フジロックや愛知県のフェスが話題になった。コロナ禍における夏フェスのありようにはいろんな意見があろう。
ただ、1958年のニューポートが「アート」だったのは、間違いないと思う。
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