自殺について

「恥を雪ぐ」という言葉がある。汚名を晴らして名誉を挽回するという意味である。
江戸期の武士は刑罰の1つとして切腹を命じられ、刑罰でなくとも薩摩では「貴様にはこれこれの罪がある」と指摘されたら黙って帰宅し、腹を切ったと伝えられる。

これが「恥を雪ぐ」に当たるかどうかは疑しい。というのも、切腹が〝汚名を晴らし名誉挽回〝になるとは思えないからだ。疑いを晴らすことなく罪を認めて刑に服し、あるいは彼岸へ逃亡する卑怯な振る舞いであるからだ。

森鷗外に『阿部一族』という中編小説がある。ご存知の向き多かろうが江戸初期の熊本藩、藩主細川忠利が亡くなり、恩顧の家臣たちが続々追腹を切る。
追腹は当の殿様が生前認めた者しか許されない。阿部弥一右衛門もまた忠利に殉死を願い出ていたが、どこか反りの合わぬ弥一右衛門に、忠利はそれを許さぬまま薨る。
殉死する者増えるなか、弥一右衛門に対する風当たりが強くなる。「あれだけ先君の恩顧を賜っておきながら、お許しのないのを幸いにおめおめと生きておる。どうやら阿部の腹の皮は常人と違うようだ。瓢箪に油でも塗って切ればいいのに」。日本に顕著な同調圧力あるいは嫉妬。
憤懣やる方ない弥一右衛門は自宅に一族を集め、「おお、ほんなら瓢箪で腹切ってやろうわい」と切腹。これが忠利の遺命に背く行為と問題視され、長男の禄は分散される。
阿部一族、反逆の元となる。

「阿部一族」あるいは「切腹」でネットを検索すると、やれ「森鷗外が見出した武士の倫理」だの「名誉」といった語句が上位に表れ、辟易する。鷗外は何も〝武士道〝だの〝倫理〝だのを明らかにしたのではなく、ただ「歴史其の儘」を著しただけ。だから本作でも、仲良しの隣家の主人が阿部の若者を討ち取ったあと、ただ一言

「大いに面目をほどこした」

で終えているし、『寒山拾得』でも

「道翹は真っ青な顔をして立ちすくんでいた」

で突き放したのだ。これだから馬鹿は困る。

※鷗外『寒山拾得』(青空文庫)。素晴らしいから読んでみて。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/1071_17107.html

切腹にも飯腹、忖度腹?(※) 要は自分が死ぬことで子々孫々まで厚遇されるという「功利腹」があり、また、同調圧力を恐れあるいは耐えきれずに腹を切ったものがある。
※これらにはそれぞれちゃんとした「切腹の種類」名があったが、ド忘れしたので別途。

時代は違えど、人間そんなものだろう。いくら美化しようったって駄目なのだ。無効。

したがって切腹が「恥を雪ぐ」ことにはならない。その名残たるヤクザの指つめ同様、あれは恥を雪ぐというより

「詫びを入れる」

が正しい。阿部弥一右衛門の場合はさしづめ「怒り腹」だろうか。
※マックス良く言ったところで自裁な自裁。自らを裁く。

なぜ鷗外やヤクザまで持ち出して延々切腹話をしているかというと、三浦某氏が自殺したからだ。
俺は三浦氏のことは知らない。ミュージカルに出て人気してたらしいが、興味もない。

警察庁のウェブサイト https://www.npa.go.jp/safetylife/seianki/jisatsu/R02/202006sokuhouti.pdf
によれば、今年の自殺者数は6月末時点で9,336人。今月に入ってまた増えるだろうから三浦氏がその〝9千分、1万分の1人〝に入ったと言えば言えなくもない。

だが、常日頃から俺が「死者は(生者も)数じゃない」と言い募っているのは・・・
親族関係者もちろん、残された人々がどれだけ悲しんでいるか。俺はファンでも何でもないがゆえ、却ってその悲嘆ぶりに瞠目し、ある若者の「不在」を感じることができる。

ここで用いる「不在」という言葉は、現上皇后が拉致問題発覚時に使われた言葉である。「あの方たちのご不在を」と。
むろん拉致被害者の生死は不明で、三浦氏の死は事実。でも不在は不在。ここにいるべき人が、いない。

彼は自殺。誰にも明かせぬ悩みを秘めて人知れず懊悩し、ついに己自身を殺害したものだろう。
そして三浦春馬は、己のみならず周囲の人々を、ファンを殺した。
こんなに罪深いことはない。死者を責めるな言うけれど、俺は断固として責める。三浦春馬は罪人である。

自裁じゃない、自殺。ましてや「自死」なぞといういい加減な言葉では表せない。
あからさまに三浦君のことではないが、ブロ友氏は「自死」と書いた。俺はやんわりながら抗議した。「自死じゃなく『自殺』でしょう」と。
氏は「自殺しようとしたことがあるから〝殺〝という言葉は使いたくない」。

ほーん。

自殺念慮くらい、俺にもあるわい。何度だって。今もまさに。
酒飲んでブログ書いて、それでなんとか保っとるんやないか。

もっとも、彼の〝自殺経験〝と俺のそれは比べるべくもない。そこでこんなことを言い募るのは傲慢だろう。
しかし俺が傲慢なら、あんただって傲慢じゃね? 
単に言葉の使い方 ー 言葉こそ精神・心の基本じゃあるが ー というより、事の重みを「自死」と言って矮小化する。その心底には三浦春馬のみならず、あなた自身の命を重みを、矮小化していないか。だから失礼ながら「傲慢」と、ここ俺がとこに申し上げておる。

俺は太陽が西から上り、俺以外の全員がコロナウイルスに罹り、カフカ『町の紋章』やブッツァーティよろしく神の怒りの右拳が、ここ宝塚上空に表れようとも、絶対に自殺しない。
それは神と、残された人々に対する業悪、宇宙一の罪だからだ。

弱くったてって構わない。辛いなら高峰秀子みたくパリに逃亡しちゃえ。
ましてや武士道なんか不要。
兎にも角にも神に召されるその日まで、生存のみを維持せよ。なーんにもしなくても、〝生産性“が無くとも、この精巧無比なる心臓を止めてはならない。
それだけで十分、あなたの生きる価値はある。神の被造物ごときが、神の偉大なる創造物・あなた自身や家族友人、ファンを殺してはならない。

もちろん俺も。

三浦春馬は逝っちまったが、残された人に、俺は叫ばんばかりにこう訴える。

「不在はやめれ」

◆あなたがここにいてほしい

https://youtu.be/IXdNnw99-Ic


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