2020.4.21 許されたかったあの頃
今日は曇天。昨晩は頭痛をどうにかするために飲んだ筋弛緩剤のせいか、今日待ち構えていた懸案事項のせいか、どうも自律神経がおかしくて頭がぐわんぐわんするは吐き気をもよおすわで何度か目が覚めてしまった。おかげで寝起きが悪い。
ここ数日、ほとんどテレビを見ていない。出勤していたときは、朝の支度をしながらと夕飯を食べながらテレビを眺めていたけれど、仕事と生活が地続きになって点ける習慣がなくなってしまった。Twitterやニュースサイトを眺めていれば、トピックスは頭に入ってくる。今朝は原油価格暴落のニュースと、コロナ流行を受けた特別給付の一人10万円の受取人が世帯主であることが私のタイムラインを賑わせていた。
これについてはまた書きたいが、もぐら本の発刊準備が佳境だ。そのためコロナ騒ぎがここまで大きくなる前の自分で書いた文章を読み直したのだが、私の焦りがひりひり伝わってくる。
世界は成果を追い求め、行動に行動を重ねて成長しようとしているのに、その直線的な流れに乗りたいのに乗り切れない自分。毎日毎日、老いていくとわかっているのに。
自分以外の世界がぴたっと止まった1ヶ月、とかあればいいのに。そうしたらゆっくり考えを巡らせたりもできるんじゃないか。「そんなことできるわけないのに」と、ため息をついた日は数えきれない。走り続けるほかに生きる道はない。
ところが現在、未知のウイルスが流行して、世界の流れは止まってはいないが、明らかに変わった。多くの人が苦しみ大変な思いをしているこの状況を決して喜べはしないけれど、クリティカルな影響がない私にとっては、モラトリアムが与えられたようでもある。
行動しない奴は自己責任だそのまま死ね、と言わんばかりの資本主義のムードにどっぷり浸ってきたのに、今や晴れた日に外に出なくたって、新しい出会いを増やさなくたって、それが良いとされる様に変わったのだ。リモートで仕事をしているからまるっきり自由時間とはいかなくても、淡々と仕事をし、生活をし、本を読み、あても無い思索に明け暮れていても、誰の目も気にならない。
一ヶ月後の生活はよくわからない、もう出勤しているかもしれないし、まだ今と変わらぬ生活をしているかもしれない。自分が罹患する可能性ももちろんあるし、経済もさらに冷えているかもしれない。ずっとずっと、会いたい人とも会えないかもしれない。未来の見えなさは、数ヶ月前よりよっぽど酷い。なのに、このモラトリアムはどこか居心地が良い。
私はきっと、こうして立ち止まることを、ずっと許されたかったんだ。
今日は懸案事項だったことを一先ず終えて、なんだか荷を下ろした気分。気もそぞろであまり片づけられなかった仕事を、明日は黙々とやらなくては。
今日のご飯は
シナモンロールと珈琲、鳥の肉団子入りネギショウガスープに春雨を投入したもの、サバの煮付けとごはんと味噌汁
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