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2022年の長い日記

わたしいま意匠変更中だからしばらくはからっぽですよろしく
『たやすみなさい』岡野大嗣

今年、見知らぬ方が、以前私が書いたnoteの記事をTwitterで取り上げてくれた。記事を読めば、しばらく前の自分のことなのにもう随分遠いところまで来たなと感じさせるもので、何も変わっていないように思えても自分はちゃんと進んできたのだなと感傷に浸ることになった。私にとって文章を残すことは今の自分のを整理するためにも、未来の私への記録のためにも、やった方が良いこと。なのだけど、私が文章を書きたくなる時というのは明らかに状態がダウナー側に振れているときで、この1年は文章をあまり書いてこなかったからこそnoteに残っているのもTwitterでつぶやく内容も必然的にネガティブの極みだ。読んでいて自分でも大丈夫かと心配になる。

いま1年を思い返してみればそんなに酷い気分の時ばかりでもなく、2022年の記録として今残っている文章だけではふさわしくないので、改めてフラットに記録を残そうと思った次第だ。

働きました

転職こそしていないけれど、今年は社内の異動と担当変更でそこそこ変化があり、大事な仕事が回ってきたりもした。残念ながら、私が特別大きな成果を残したからというわけではなく、相次ぐ退職者により浮いた仕事を受け止め続けていた。元々あまり出世欲の強いほうでもなく、会社で目立つポジションだったとも思えないけれど、地味な仕事を積み重ねて信頼残高を積み上げ、ただ会社を辞めなかったら良い仕事が回ってきた。なんだ、あんまり肩肘張って仕事しないでもよかったな、と過去の自分を振り返る。バリキャリでもゆるふわでもない中庸の会社員には、こういう処世術もあるのだと、昔の自分に教えてやりたい。

それから昨年はじめた、プロボノの活動が本格稼働したのは今年からだった。勤め先の会社のような大きい組織ではないから、何でもかんでも自分たちでやることになる手触り感だらけの場。わかりやすくお金で雇われていないだけ協働することの難しさもめちゃくちゃ感じているけれど、普段の自分が会社がどれだけ画一的な価値観のなかにあるのかを実感することにもなった。モノを一から企画して流通させるところまで一気通貫で自分が携われる仕事は、会社だとなかなか難しいので活動は新鮮で面白い。

こんな状態で夏ごろまでは面白おかしくそこそこ気張って働いていたのだが、秋口ごろからだいぶ疲れていた。要領の良いタイプではないからこそ十八番であった「飛んできたボールはとにかく拾う」、「頑張って根性でやり切る」、みたいな働き方が体力面でも気力の面でもどんどんできなくなっているし、ポジションとしてもそれが求められているわけでもない、何でも引き受けたところでそれが良い評価につながらないのも、もう流石にわかっている。だから年の後半は「『頑張らない』を頑張ろう」と思った。

でも「それは私の仕事ではない」と仕切ったり優先順位をつけるとなったときの周囲との目線を合わせもなかなか骨が折れた。前はやってくれたのにという視線も痛い。私の場合、猛烈に走っていた方が自分のモチベーションは維持しやすく、ちょうど良いところで線を引いてモチベーションを保つというのもうまくないから、程よい身の置き所や力の入れ方を試行錯誤しているというのが本音のところだ。どんな評価や成果に転ぶかはまだ分かっていない。今までのやり方をしないというのは、結構怖いものなんですね。

断捨離しました

春頃からだいぶ断捨離にはまっていた。何の拍子に見つけたんだったか、ミニマリストあやじまさんのブログにはまり、真似をしながら片付けていった。主に処分したのは服。手始めに手持ちの服を管理できるクローゼットアプリに、家にあった服を登録していくと約200着の服があって驚いた。流石に多い。ぼろい服は処分。傷んだ靴も処分。まだ着れるとはいえ喜んで着たいと思えない服は処分。昔のお気に入りも、今着ていないんだったら処分。もしかしたら着るかも、と迷ったときにはこれまた別のファッションエディターの方の言葉を読み返しながら、処分。

ワードローブに「どうでもいい服」は必要ありません。その代わり絶対に入れて欲しいのが「その人が着るべき似合う服」と「3歩先の自分が着ているだろう服」。
ファッションエディター昼田祥子 断捨離で見えた私と服の新しい関係 

昔母に買ってもらったコートを捨てた次の日は、捨てなきゃよかったかもと無性に悲しくなったりもしたのだが、数日すればけろっとしていた。よく考えたら10年はうちにある。もう十分着た。必要な別れもある。お気に入りなのにぎゅうぎゅうに詰められていた洋服たちが、少し余裕を持って居られるようになり嬉しそうに見える。

と偉そうに言っておきながら未だ100着以上の服がクローゼットに収まっている。少ないとは言えないのだが、それでもだいぶすっきりしたので大手術はひと段落。クローゼットアプリでどの服をどれだけ着たかを可視化して、着ていない服がわかるようになったので、ちょこちょこと整理は続けている。

直近は私服の制服化を提唱するあきやあさみさんの本を読み、来年はより厳選して本当に好きなお洋服を買うのだ、、、と思っているところ。
(来年と言っておきながら今年も、貴族な値段の服、買いましたけどね。もうmameのコートのように買えなくて泣くのが嫌なのだ

リセット欲

仕事の仕方も断捨離もそうだが、今年はリセット欲が強かった。

すべてに共通することだけど、自分の中の古いパターン脱ぎ捨てたくて仕方なかった。例えば、人の期待に応えることで自分の価値を担保することばかり考えてしまう。自分の気持ちとは別のところで、頑張らなきゃ、頑張らなきゃと自分を追い立てること。そんな肩に力が入った状態を脱ぎ捨てたい。

そして、捨てることは一定うまくいったと思っている。服だけではなく、本やその他雑貨の類も片付けていって、年始よりはだいぶ身軽な家になった。仕事もちょっと肩の力を抜くようになった。こんなプロセスを経ている間に、自分の気持ちが大きく引っかかっていた人間関係ですら、整理することができた。

でも、そのあと訪れたのは案の定からっぽ感だった。身軽で悪くないが、着地点がわからないままちょっと浮遊している、次の自分の置き場が定まらない不安な感覚。別に華々しい場所に行きたいわけじゃない。心底自分が納得していられるところに着地したいというのが、自分にとって切実な願いだった。

そんな折、ぱらぱら歌集をめくっていたら冒頭の短歌が目に留まった。
「わたしいま意匠変更中だからしばらくはからっぽですよろしく」
ああそうか、私はいま意匠変更中なのか。これからどこかに勝手にたどり着くのではなくて、必要なものを選び取って並べるのか。そんな言葉が頭をめぐって、ちょっと腑に落ちたものがあった。

仕事を必死でやるのも、人間関係の苦しさも、どれもこれも選ばれることへの欲求、そして選ばれないことの欠乏感が根底にあったのだと思う。それを少しずつ剝ぐステップがこの一年だったのかなと。

不要なものを捨てると新しいものが入ってくるっていうじゃないですか。

片付け教の回し者のようだけど、モノの必要不要を判断していくうちに、自分がいま何の価値観を大事にしているのか自分でつかめてくるという効用もあったように思う。それは、この数年してきた一人旅行だったり、足を運んだ美術鑑賞だったり、あるいは日々の生活を通じて意識してきた、自分の感情をそのまま受け止めることの訓練のようだった。
自分で選ぶのって、自分に、自分の感情に一定の自信がないとできないものなんじゃないかと思っていて、そして本当に長いこと私はそれができていなかったように思う。
この数年、私の周りにいた優しい人たちが、あなたは賢くて美しい人なのだと懲りずに私に伝え続けてくれたことが積み重なって、選ばれようとしてびくびくし続けなくても良いのだという自信をほのかに得ることができた。

社会で生きているので、何かに選ばされている部分も、絶対にある。だけど、自分に自信が持てれば、自分の感情に自信が持てれば、ちゃんと好きなものを好きと言って選び取れる。その嗅覚が戻ってきた、そんな兆しを今年感じることができたのだ。

からっぽの部屋を埋めきるにはまだ時間はかかりそうだけれど、ちょっとずつ今の自分が選び取ったものを並べていって、そんな納得のいく場に身をゆだねる。新しい年はそんな一年にできたらいいなと思っている。

クラリネットを吹きました

締めっぽいことを書いておきながら、これは書いておかないといけない。
感染症流行の影響でこの数年あまり演奏できていなかったクラリネットを、今年の初めから本格的に再開した。本番は、Soloの発表会と、ちょっとしたアンサンブルと、吹奏楽。数こそ多くなかったものの新しい人との演奏機会に呼んでもらえたりもし、プロの演奏会や室内楽のマスタークラスの聴講にも何度か足を運んだりして、充実していた。

今年は私が楽器を始めてから20周年で、クラリネットといえばのモーツァルトのコンチェルトに取り組んでいる。練習しているだけでも、本当にいい曲過ぎて嬉しい。

クラリネットという楽器には、名だたる作曲家の傑作と評される作品がいくつも残されていて、その作品の殆どが作曲家の最晩年に描かれているという不思議な共通点がある。作曲家が人生の様々な場面を経て、多種多様な音楽を作って、たどり着いたところにこの楽器の音があったというのは、なんだか感慨深い。人の心の音が表現できる楽器なんだろうか。演奏する私の方も、幾ばくかの人生経験を経て、学生の頃練習したときにはわからなかった、心の機微や、温かいだけではない奥深い愛情のようなものが楽譜から感じ取れるようにもなってきて、ますます音楽が楽しい。

私だって他の楽器にあこがれることもあったのだけど、クラリネットのためのコンチェルトや室内楽に向き合い始めて、私はこの楽器と出会えて、選んでよかったと改めて思えたし、今はこれをより深めていきたいなと思っている。死ぬまでに演奏したい曲が山ほどあるのだ。

またコンスタントに練習するようになって、楽器はちゃんと練習したらうまくなるということも、ものすごく当たり前だが思った。練習した分だけ、愛した分だけ返ってくるなんて、なんて素晴らしいんだろう。大人になって努力が結果に結びつくのって、筋トレと楽器くらいじゃないか?まあ下手すぎて泣きたくなる日もいまだにあるけれど、こういう没頭できるものが自分の人生に当たり前にあるというのは、多分得難くてものすごく幸せなことなのだと、最近よく思う。

所属している吹奏楽団も第10回の記念になる演奏会の予定。
来年もいっぱい楽器を吹いて、音楽あふれる一年にしたい。


そんなこんなで、いつになく穏やかな気持ちで迎えた2022年の年末です。
皆さんの2022年のことも聞きたいな。
そして2023年、皆さん良いお年をお迎えください。
私も、良い年にします。

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