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2020.4.2 ひとかどの人物になりたい

はっと急に言葉が降ってくるときがたまにあって、今日も在宅で黙々と仕事をしていたら不意にきた。

「ひとかどの人物になりたい」

私の欲は要するに「ひとかどの人物になりたい」ということだ。妙にしっくりくる言葉が見つかった。

じゃあ私にとって「ひとかどの人物」ってどんな人だろう。

目安はメディアに取り上げられること、かなあ。でも、それは有名人になりたいということとイコールではなくて、その道で実績があって、意見があって、プロとして「他者から認められている」ことが大事。いっそ、一つの道のプロじゃなくたっていい。自分の名前そのものが職業のような人たちにはつい憧れる。

本当のところ、そういう自分の考え方は認めたくなかった。なぜかというと「なにで」がよくわからないのにそんなこと言うの、すごくかっこ悪い。

スーパースターみたいな旦那さんを手に入れれば自分もその妻というポジションでひとかどの人物っぽくなれるのでは、と淡い期待をしていた時期もあったのだけど、今思えばそちらの方がよっぽど難易度が高い。自分のコントロールできる範疇を超えているじゃないか。

昨晩、シンガポールに赴任している女友達に連絡をした。あちらもコロナの影響が出ているようだったから、ふと気になったのだ。彼女はシンガポールに残ったまま在宅勤務しているとのことだった。

私があれやこれや、やろうか迷ってるんだよねーと話をすると友達は「そうやって顔上げて色んなこと考えてるの、すごい。私は目の前のことで手一杯だからもうちょっと周り見なきゃね」と言った。でも、すごいのは友達の方だ。私は目の前のことに一生懸命になれない自分が嫌で、もがいているだけなんだよ。

目の前のやるべきこと、やりたいことをやっているうちに、ひとかどの人物になっていた、と言うのが理想的だ。なのに。

素敵な理想像はあるのに、朧げすぎてどうしたらたどり着けるのかがわからない。何でもいいからやってみればいいのに、やりたいこともたくさんあるはずなのに、空回りだけして結局何一つ手をつけられない。「こうあるために頑張りたい」という向上心と、「そんなに頑張らなくたっていい」という臆病な自己受容の気持ちが、常に葛藤している。頑張りたいけど、頑張りたくない。どちらも中途半端。いっそ、父性的な力で誰か私に無理矢理にでもこれをやれと、あるいはそんなこと諦めろと、言ってほしくもなる。

こんなこと言っている私にだって、仕事に、勉強に、趣味に、目の前のことに一生懸命になっている時期だってたくさんあった。そんな時間は、飲まれている間は苦しくても、振り返ればいつも良い時間。だから、そんな一心不乱に頑張る自分になりたい。

でも熱中や没頭は、いつも運の巡り合わせのようにやってくるものだった。自分で意図して作り上げられたことなど何一つない。そう思うとまた自信がなくなる。

もがいている時間は、そういう巡り合わせのような流れを堰き止めているのだろうか。それとも、このもがいている時間こそが、流れの一つなんだろうか。

そして私はこの同じようなことを、何回書けば気が済むのだろう。ただ悩んでいたいだけのばかものよ。


すこしずつ間違えていく計算の誤差ひろがりてわれの人生(ひとよ)は  ー『プラチナ・ブルース』松平盟子






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