推し活② 有間編 彼は再び松を還り見たのか?
家にあれば 笥に盛る飯を草枕 旅にしあれば椎の葉に盛る
(万葉集、巻ニ 一四ニ)
磐代の 浜松が枝を引き結び 真幸くあらば また還り見む
(万葉集、巻ニ 一四一)
有間皇子の歌とされている二首。
万葉集巻ニ 挽歌の冒頭が彼の歌である。
中大兄が待つ白浜へ向かう道中に詠んだとされている。白浜に着けば、命がないとわかっている中で歌を詠むその心中を思うと胸が痛む。
その一方で、追い詰められた状況で和歌を読めるもんなのだろうか??という疑問が湧き上がる。
例えば、仕事で追い詰められた時に『明日は上司に絞められるのか、、、、そうだ!歌を読もう!』となるだろうか。少なくとも、自分は無理である。
彼に限らず、辞世の句を読んで亡くなられた方々に対しても同様の気持ちである。死を前にして、何かを残したい気持ちに駆られて、歌を捻り出すのだろうか。最期の最期まで、人生を振り返るその姿勢に脱帽だ。
話を戻す。
このニ首は後世作とされてもいるが、本人が詠んだと仮定して、果たして彼は再び磐代の松を還り見れたのだろうか?
というわけで、岩代(磐代)に行ってきた。
JR岩代へ向かう列車から見下ろす紀伊の海が大変美しかった。
駅舎は海のそばにあり、故郷で見た景色に似ており少し懐かしい。
駅を出て、まずは磐代の結松へ向かった。かの歌を詠んだ場所だそうだ。本当にこの位置なのかは謎である。
前回、類推した海路ルートで移送された場合、彼が詠んだ場所は海上であるはずだからだ。または、磐代で停泊して上陸して詠んだのだろうか。
有間皇子まで700mという看板があった。磐代の結び松まで、とかではなく。
700m先に御本人がいるような表記で少し微笑ましかった。アイドルの握手会のようである。
磐代の結び松は国道42号線沿いの海側にあり、非常に狭い場所にある。
車の通行が激しく、見通しも悪い箇所なので、道を横断するのは断念した。まぁ、彼自身が引き結んだ松ではないので良しとする。
白浜への移送中、停泊して上陸したのか。もしくは、もっと手前の湊で降りて、徒歩で白浜に向かっていたのかは不明だが、松を引き結んでまで命を延ばしたいと思ったのは確かなのだろう。
結び松から海に向かうために、再び駅方面を歩くと海が眼前に広がる。
JR岩代駅の手前で、踏切を渡ると海に出る。
その海岸には、磐代王子跡が今もある。
熊野古道は平安時代院政期頃から始まったとされており、有間が生きた7世紀頃はまだその概念はなかった。
ただし、道はその頃から存在しており、熊野詣が盛んになり整備が進んで名が知られるようになった、というのが熊野古道という名称の成り立ちであろう。
この王子というもの、初めて知った。
熊野古道沿いに存在する神社のことで、九十九王子と言われている。
熊野へ向かう道中に儀式を行った場所で、読経したり奉幣したりと神仏混在的なものらしい。
現代でよく見る道祖神的なものだろうか?旅の無事を祈る形式は様々で、手を合わせる人もいれば、二礼二拍手する人もいるし、石を積み上げる人もいるが、安全加護を祈る気持ちは同じ、というものかもしれない。
磐代王子から少し南に下ると千里王子跡がある。短い区間ではあるが、海岸沿いの古道である。現在は、山の中を通る道しかないため、1時間ほど歩く必要がある。
しかし、海沿いに歩けば2km程度の距離である。人間の平均歩行時速が4km/hとすると、およそ30分の所要時間の距離に2つの王子がある。
王子近すぎないか、、、、??
磐代王子で儀式をして、30分歩いて再び千里王子で儀式をするのは、面倒だしタイムロスにしか思えないのだが現代病過ぎるだろうか?
平安貴族は暇すぎて恋愛してたような連中なので、暇すぎて儀式するってこともあり得るか。
羨ましい。
さて、最初の疑問に戻る。
『有間皇子は、再び磐代の松を見れたのか?』
当初、挽歌という先入観により、白羽→藤白坂の道中で詠んだと考えていた。故に、彼は松を再び見れなかったと思い込んでいたのだが、拷問された後の人間に歌を詠む余裕はあったのだろうか?
歌を詠む胆力がなかったならば、
彼は、『再び』松を見ることが出来た。
と考える。
磐代の 浜松が枝を引き結び 真幸くあらば また還り見む
(万葉集、巻ニ 一四一)
この歌をいつ詠んだのか?という推測をする必要がある。
有間皇子は白羽に最低2回訪れている。1回目は療養のため、2回目は中大兄による尋問を受けるため。
1回目の療養旅行の際に詠んだ可能性もあるが、挽歌に収録されていることと、万葉集巻ニの編纂時期が近いことから2回目の道中で詠んだ可能性が高いと考える。
有間が生きたのは640年〜658年で、万葉集巻ニが編纂されたのは、元明天皇在位時707年〜715年とされている。彼の死後およそ50〜60年後である。
感覚的な話になってしまうが、自分の親世代、祖父母世代が生まれた頃合である。時間経過による事実の風化はまだ始まっていないだろう。
ということは、この歌は旅先で歌うような旅愁歌や郷愁歌ではないという世間の認識があったと考えられる。つまり、実際に2回目の尋問される道中で詠んだ可能性が高いということである。
想像の域を出ないが、海路にて白浜に向かった場合の航路(黄色線)、陸路で白浜から藤白坂へ向かった場合の行程(青線)を大雑把に地図に引いてみた。
磐代を通過するのは2回(図中の黄色丸)。つまり、この歌を詠むチャンスはこの2回である。そして、白浜からの道中は拷問後である。
拷問後の人間に和歌を読む胆力がないならば、ただ目に松を映すのみだ。
つまり、和歌浦→白浜の道中(黄色線)で歌を詠み、白羽→藤白坂の道中で再び松を見た。
歌で祈ったように、彼は再び松を見ることが出来たのだと考えたい。
まぁ、真面目に考えると、帰り道は本当に陸路なの?とか、海路だったの?とか、そもそもこの歌は本人詠んだの?とか磐代で詠んだ証拠あんの?とか色々疑問が出てきてしまう。
穴ボコだらけの理屈ではあるが、彼はもう一回、松を見れたのだと信じたい。
もし、言霊ってのがあるとしたら、
彼が『再び松を見たい』ではなく、『松を育てたい』と願ったら、殺されない未来があったのだろうか。
続く。
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