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【国語】所謂「ラ抜き」言葉と善意の暴走

 高2の生徒さんが「ラ抜き言葉についてどう思うか」という課題を出されたらしい。「言葉は変化するもの」と返したそうだ。
 言語学的な素養のない高校生にこんな雑な設問の感想を求めても本質的な教育にはならないと思う。

 『ラ抜き言葉」問題については語り尽くされているが、採り上げてみる。

 典型的には、「見る」という上一段活用動詞の可能表現について、正しくは「見られる」なのに「見れる」という「誤用」を嘆くものだ。
 テレビでは、本人が「見れる」と発話している上にわざわざ「見られる」と字幕を出す。違和感を覚える。

 この現象は、五段活用(実際は四段活用)動詞との混同とされる。「聞く」の可能を表す「聞ける」の類推による誤用とのことだ。

 以下のように生徒さんに説明した。

  • 動詞の語尾の「られる」は-ar-と-er-に分解され、それぞれ「在る」「得る」の意味を持つ。

  • 「在る」は、人知の及ばない、自分で制御出来ないことを意味する。

  • そこから「見る-在る-得る」には、「見ることが在る」なので受身、尊敬、自発のような「自分ではどうにもならない」という意味が生じ、「得る」によって可能の意味が加わる。

  • 「見れる」は「見る-得る」であり可能の意味に限定されるので弁別性が高い。更に「見られる」が受け持つ4つの意味の負担を一つ減らせる。

  • 五段活用の「聞ける」と揃うので体系的にも美しい。

  • コーパス(実際に使われている発話を収集したデータベース)でも「見れる」が優勢になっている。

  • 正しいとされる標準語も現代カナ使いも、その成立においてかなり恣意的に決定されている便宜的なものだ。

 このような視点で国語を習ったことがないようで、生徒さんには『面白い!」と好評であった。

 日本語における「在る」の大活躍を再認識できた一方、「『見れる』撲滅運動」とは何なのかを考えた。

 正しくないことは許せない、テレビ局に電話してでも正しい方に導いてやるという熱情や実際に電話する行動力。恐らく言語学的には客観的に理解可能かつ不可逆的なこの現象を槍玉に上げることに意味はあるのだろうか。

 間違いなく彼らは善意でこれを行なっている。同時に正義を為したという達成感も得られるのだろう。

 これを個人的に「善意の暴走」と呼んでいる。

 場合によっては悪意よりタチが悪い。なんせ「正しい」ので歯止めがない。そして、正しさの検証を行うことも稀だ。

 「ラ抜き」位ならそんなに実害はないが、今は事あるごとに「正しさ」を求められる。「ポリコレ」という嫌な言葉も流通している。

 言いたいことがある。

 貴方には本当に他人を糾す資格があるのか。
 その行為が他人に負担を強いることに罪悪感はないのか。
 そもそも、その正しさは正しいのか。



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