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なぜ学校で英語を学ぶ(学ばされる)のか

 当塾は「数理塾」を名乗りつつ、実は英語も教えています。
 数学など他の科目は相当優秀なのに英語だけは全く興味が湧かないという生徒さんが通いはじめました。当然成績も芳しくありません。
 「大学へ行くことの是非」といった根源的な問題はとりあえず傍に置いて、

現実、大学受験で数学を諦めると理系学部の選択肢はほぼなくなり(数学は理系学問の基本言語なので出来ない人に来られても困る)、英語を諦めたら受験できる大学はかなり少なくなります(推薦や小論文のみといった特殊な受験形態を除きます)。

 これが、この21世紀前半の日本国における現実です。
 本人は大学へは行きたい。でも英語に興味は湧かない、やる気も出ない。
 さあ、どうしようか。困った

 こういう時は、一旦常識を疑い、自分の立ち位置を確認し、再構成すれば良いことがあるかもしれません。
 以下、とりあえず、なんらかの語学学習は必要だと仮定して話をします。
 では、学ぶべきとされているのが、なぜフランス語でもアラビア語でもなく「英語 English」なのか?の確認です。

 尚、本稿では、どうやったら英語が上達するかといった話は一切しません。その前提となる認識についてのみお話しします。実際にどう指導しているかは別のところで述べたいと思います。

なぜ「英語」なのか?

 他でもない「英語」を学ぶ(学ばされる)理由。先に結論を言います。

日本国の教育制度の中で、米語を基調とした英語を外国語として修得することが当然とされているから

 穿った物言いですが、これに尽きます。

 このことを前提として人材が育成され、教材が開発され、優劣をつけ不安を煽り、資格制度を整備し、そのおかげで多くの人がご飯を食べている、即ち産業化していると言っても言い過ぎではないでしょう。
 ただし、外国語教育の産業化自体を問題にするのは酷です。資本主義社会では多かれ少なかれ、良くも悪くも「制度整備→常識形成→不安惹起→需要喚起」というのが産業構造の王道ですので。

 そして、学ぶべき外国語が米語を基調とした英語である理由。

英語が現在事実上の世界共通語だから

 「共通語Lingua Franca」については、ロシアの貴族はフランス語を話していた、ラテン語が共通語として一定の役割を果たしてきたなど一大テーマなのでそれはさておき、

歴史的に見ると、昔からずっと英語が共通語だったわけでもなく、また、未来永劫英語が共通語である保証もありません。
 21世紀の西欧中心の文明社会で、イングランド南東部の一方言に由来する「英語」が幅を利かせているのは、たまたま、単なる歴史上の巡り合わせです。
 「事実上De Facto」というのは、「世界共通語は英語なので皆んな使ってね」という決まりは特にないのに実際はそうなっていることを言っています。

 ではなぜ、現在英語が事実上の世界共通語なのか。

大英帝国が産業革命に成功、世界に覇権を唱え、のち米国が軍事・経済・文化超大国となったから

 強い国が影響力を持つ。人は強きになびく。
 日本語でも現在、東京方言が他の方言の上位言語(上下はない筈だが)として影響を与えていますが、昔は京都方言がその役割を担っていたそうです。
 歴史が少し違っていたら、我々が今第一外国語として学んでいたのはアラビア語だったかも知れないし、中国語だったかも知れないし、外国の人が日本語を第一外国語として学んでいたかも知れません。
 英語という言語そのものに何らかの優れた点、利点があったから普及した訳ではなく、強い国の言語だから普及したのです。

 つまり、なぜ「英語」なのか?に対する答えは「単なる偶然」なのです。

 実は、これらのことは、塾で英語を教える際、簡単な英語史と併せて、はじめの授業で生徒さんに教えています。

 「学ぶのが英語なのは、単なる歴史の偶然」
 「英語の方が日本語より上とか下ということはない」
 「よそ様の言葉だから、それなりの敬意を払うこと」

 ビビらず、媚びず、粛々と学べば良い。今、英語がよく分からないと言って才能がどうのとか無駄に考える必要もない。距離感を持って、敬意を持って学べば良い、そう個人的には考えています。
 但し、英語そのものを研究したい、英語圏の文化に興味がある、そういう場合は話は全く別です。念の為。

「英語」という呼び名

 ちなみに、ここまで当然のように「英語」と呼んできましたが、日本ではかなり特殊な扱いをされていることにお気づきでしょうか。
 確かに、フランス語を「仏語」、ドイツ語を「独語」とも書いたり呼んだりしなくはないですが、普通は国名(又は地域名・民族名)+「語」ですよね。なぜ「イギリス語」とは呼ばないのでしょう。

 Englishは、イングランド語というのが割と正確な翻訳だと思います。Englandは「アングロ人の地」という意味で、今のドイツ辺りから移住したアングロ人という民族の名前に由来します。ちなみにEnglandは元々「Engla land」で、laが重なるのがいつの間にか1つになったそうです。

 日本における英語教育の隆盛には、この特別感のある「英語」という呼び名も関係あるのでは、と勝手に思っています。
 少し皮肉ですが、何でも外来語で煙に巻く(議題を「アジェンダ」、骨子を「スケルトン」とか言う)傾向があるのに、英語だけは頑なに漢字二文字を維持しているのも面白い現象かなと思っています。

なぜ外国語を学ぶのか

 さて、ここまで保留してきましたが、なぜそもそも外国語を学ぶ必要があるのでしょうか。
 なぜ義務教育から高等教育まで必須科目として外国語(英語)を学ぶのでしょうか。なぜ、それが当然とされているのでしょうか。そして、各種語学学校の存在が示すように、一定の需要が存在するのでしょうか。

 母国語ができれば国内では会話に困らないし、今時いざとなれば翻訳アプリも自動翻訳もあります。外国語ができることより、スマホやパソコンを駆使して何とかする能力の方が必要なのではとも思えます。

 身も蓋もない言い方をすれば、どんなものでも出来ないより出来る方が良いに決まっています。あとは、優先度の問題ですね。

 まず、あらゆる科目の中で最も重要なのは間違いなく国語です。
 国語は理解、読解、その他あらゆる学習の基盤です。国語ができなくて英語も数学もへったくれもありません。

 その上で重要とされるのが、数学と英語です。数学は自然を理解するための基本言語であり、英語は外国の文物を理解するための事実上の共通言語であることは先に述べました。

 あくまで個人的な意見ですが、学問とは、「こいつの使い方を覚えて一儲けしてやろう」「他人より優位に立って偉そうにしたい」みたいなケチくさいものではなく(まあそれも「にんげんだもの」ですが)、大袈裟に言うと、人間が人間であるためのみたいなものであると思っています。

 人間が地球をダメにしている、優しくない、いやそうではない、とかの話は長くなるので棚に上げて、人間の存在とか進歩とか尊厳を肯定した上で、物事を理解することの重要性を一言で述べてみると

理解するのは面白い

これに尽きるのではと思います。
 更に言うと、例えば統計学で数学的素養や理解を欠いたまま、やり方だけ覚えて適用し、その結果が独り歩きするような事態は危険ですらあります
 難しいことはともかく、とりあえず付き合ってみれば良いことがあるかも知れませんし、ないかも知れませんが、理解するのは楽しいので損はないのでは、と言う甚だ説得力に欠けることしか今は言えません。すいません。良いのかこれで。

英語の特徴

 最後に、英語の特徴について簡単に述べておきたいと思います。英語という言語を客観視し、英語が不得意な人の肩の荷を少しでも降ろしてあげたいという親心です。
 あくまで個人の感想です。こう言っておけばいざという時責任逃(略

単語の発音と綴りの間のズレが大きい

 「ズレが大きいか小さいか」というのはあくまで相対的なものではありますが、少なくとも知る限りヨーロッパの言語の中ではかなり読むのが難しい(綴りを見ても発音が分かりづらい)言語になるのではという印象です。

15世紀初頭には大母音推移と呼ばれる発音の変化がはじまり、近代英語初期である17世紀初頭まで続いたことで、英語の発音は以前と比べ大きく変化したものの、書き言葉の綴りは伝統的な発音に基づいて整備されることが多く、さらに活版印刷の普及などによってこの綴りが固定化したため、単語の発音と綴りの間にずれが生じるようになった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8B%B1%E8%AA%9E#%E6%AD%B4%E5%8F%B2

 以前のWikipediaの「英語」の解説には、綴りと発音のズレが「学習者の修得を困難にしている」という記述がありましたが、削除されたか、他の記事であったようです。

 この問題については、様々な解説があり、ここでは詳しく述べませんが、下の「言語の部屋」というYouTubeチャンネルが素晴らしい解説動画をいくつか上げていますのでご参照ください。

 この問題、個人的には、中学の時に学校の先生に

  • Iはなぜ「イ」ではなく「アイ」なのか

  • takeはなぜ「タケ」ではなく「テイク」なのか

  • 小学校で習ったローマ字と読み方が全然違うがなぜか

と質問し、「そういうもんや」の一言で片づけられ、後に大学でドイツ語を学んだときに「何じゃこれ滅茶苦茶読みやすい」と思ってからの恨みが数十年の時を経て蘇る案件となっております。

母音が多い

 これも相対的なものですが、日本語のアに相当するものだけでも

  • catのアとエの間みたいなア

  • topの大きめのオみたいなア

  • cupの口を開けないア

  • theのいわゆる曖昧母音(シュワーと言います)

 単母音のアだけでもこれだけ区別があります。他にもあったかも知れません。因みにイタリア語は日本語と同じ母音は5つだそうです。
 外国人にとってはこの微妙な区別はなかなか難しいと思います。

 因みに、theは曖昧なザ、母音の前ではジと習ったと思いますが、he, she, me, be, weと同じく、本来はイの音で、実際演説などを聴いているとジー的な発音が普通に聞かれます。ただ、早口で軽く言う場合に曖昧なザになるだけのことのようです。日本語で「ありがとうございました!」が「アザーシタ」で通じるようなものです。違うか。

 他意はありませんが、トランプ氏の演説です。はじめのところの"the corona virus"は思いっきり「thee」、イの音で発音しています。この人は特にthee theeと言っている気がします。

アクセント記号を使わない

 アクセント記号とは、主に母音の上につけるマークで、$${\acute{a},\hat{u},\tilde{o}}$$みたいな補助記号です。
 正式には発音区別符号(ダイヤクリティカルマーク)と言います。
 他の言語では発音の便のために普通に使われているこの記号がほぼ使われないというのが英語の特徴だと思います。また、はじめの「単語の発音と綴りのズレが大きい」という特徴に一役買っている(表現は適切ではありませんが)と思われます。

 英語でも、$${Pok\acute{e}mon}$$とか外来語の$${na\ddot{\imath}ve}$$ とかの例外はありますが、ほぼ皆無と言って良いでしょう。

 その他、いろいろありそうですが、そろそろボロが沢山出てきそうなのでこれくらいにしておきます。

まとめ

 ここまで書いてきて、全く塾の宣伝になっていないことに気づきました。
 そんな余計な能書はともかく、英語の成績を上げてくれ、と言うのが普通の感覚でしょうし、もちろんプロである以上、仕事はきちんと行います。
 ただ、自分自身が中学高校の時に、こういう教え方をして貰えたら良かったなあ、もう少し英語と気楽に付き合えたのに、と思っており、基本的な私の考え方を述べておきたいと思って本稿を書いています。

 一言語オタクの戯言であり、「俺はこんなに色々知っているぞ、へへ」という自慢げな空気がそこはかとなく文章に漂っていますが、実はほとんどの人が興味がない分野であることも自覚しております。でも、こういう根源的なところで語学学習がうまく行かない人も少なからずいると思います。

 そういう、英語を学ぶことそのものに何らかの疑問を持つ、恐らく一部の人に対しての一助になれば、本稿の目的は達成されることとなります。

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