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夜見枯書店カイ想録

彼は私の前でよく笑う。

屈託のない、無邪気な子供のような笑顔だ。

けれど私は、その微笑みに恐怖を抱いてきた。

何が、私に恐怖を想起させるのかはわからない。

私の友人。決して嫌いなわけではない。

それでも、彼の微笑みに恐怖を覚える。

もっぱら、〈物語〉について語る時の、彼の歪んだ微笑には。

・ ・ ・

「やあ、今日も来てくれたね。閑古鳥の鳴く夜見枯(よみかれ)書店へようこそ」

実にだらしのない格好で、彼は私を迎えた。

クラシックな造りをした一人がけのソファに器用に横になり、今日も本をむさぼり読んでいる。

彼の名は、夜見枯千明(よみかれちあき)。

北欧の空を思わせる薄青の色をした瞳に感情の色は薄く、うっすら端に涙が溜まっているところから見て、転寝でもしていたのだろう。

彼とは長い付き合いになるが、未だに二十代か、下手すると十代に見られることさえある謎の若々しさを保ち続けている。

なんとも羨ましい限りだ。

私はと言えば、社会人になって久しく、現在は部下を持つようになったごくごく一般的なサラリーマンである。

「……夜見枯、どうかと思うぞ。そのだらしのない体勢は」

「いーじゃないか。君以外に来る人なんていないんだから。そうだろう?」

「……お前がどう収入を得てどう生きているのかを心底知りたいよ」

「いやいや、君ほど立派な社会人をしているわけじゃないから、慎ましい生活を日々送っているよ」

軽い調子でひらひらと片手を振る。こうやって私生活を聞こうとして煙に巻かれるのもいつものこと。

有名な古書店街の奥の奥。ほとんどの人間が足を踏み入れないような僻地。

そこにひっそりと佇む赴きある古書店の主である彼に昔、飲み屋でバカ騒ぎして道でぶっ倒れていた時に助けてもらった。

その恩義もあって時折、彼の生存確認をしに来ているのだが、そのたびこんなふざけた調子だ。

変わることのない時間から切り離された空間、古く甘い香りのするウイスキーのように色めく書物に囲まれた、謎に愛された美しい古書店主。

私が知る夜見枯千明とは、そういう男である。

「慎ましい生活というより、羨ましい生活だな。私にとっては」

「いつもそうだな、君は。人を羨んでばかりいるようだ」

「そりゃあそうだ。君のように悠々自適な生活を送れるならね」

「ふふっ、それはいけない。君の〈物語〉は立派なものだ。決して〈立派ではない物語〉など、この世に存在しないんだよ? ワトソン君」

「……君はシャーロックホームズなのかい? しかし私は推理小説は好まないよ」

夜見枯が、こちらに視線を向ける。

彼のルーツが西洋にあることを想わせる薄青の瞳に、うっすらと、何度目になるかわからない恐怖を覚える。

彼の目は、どこまでも透明で、果てしなく虚ろ。

見つめられるとどうしようもなく叩きつけられる、どこまでも広い空を、広すぎる空を無限に落下していく錯覚。

底知れない恐怖を連想させる瞳を持つこの男の正体が、私は未だにわからない。

彼が〈物語〉を語るとき、その瞳は顕れる。

観察? 嘲笑? 侮蔑? 哀れみ? 慈悲? 慈愛?

彼が見ているものは何一つわからない。

ただ、一つだけ言えるのは。

夜見枯千明の目は、通常の人間では計り知れない「深淵」そのものだということだ。

そして、私はその「瞳」に魅了されている。

でなければ、私は読書をしない性質なのに、この場所へ来ることはないはずだから。

・ ・ ・

「君が来るときはさぁ、大抵、何か面白いことを抱えてくるよね」

「と、いうと?」

私は店主の代わりに珈琲を淹れた。

あたりには香ばしく目の覚める香りが漂うが、夜見枯はその香りを芳しいとは思わないらしい。

本人曰く、「苦いものが苦手」だそうだ。

彼に一杯、私に一杯。

せっかく淹れてやった珈琲だというのに、夜見枯はザバッと音がするほどすさまじい量の砂糖を入れる。

苦味を相殺するというより、もはや抹殺すると宣言している量に、私は毎度のことながら苦笑せざるを得ない。

珈琲に砂糖を溶かしながら、目元を伏せて彼は嗤う。

「君はいつも面白いものを持ってきてくれる。まぁ、俺としては感謝しているんだけど」

「私は君の気に入りそうな書籍を持ってきた覚えはないが」

〈物語〉がないと生きていけないと本人が豪語するくらい、本を溺愛している夜見枯に、私は一度として何かを送ったことなどないのだが。

すると、夜見枯は生クリーム以上に甘くなった珈琲をほんの少しだけ啜り、私にとっては「嫌な目」で嗤う。

「そんなことはないさ。君はいつも面白い。平々凡々なサラリーマンと言いながら、君の人生は色とりどりの物語に満ちていて、俺は君が訪ねてきてくれることが楽しくてしょうがないんだよ。たとえ、「仕事のついで」だとしてもね」

「……相変わらず不思議な奴だな、君は。何度も言っているだろう。私は本をあまり好まない」

そう、本は好まない。

活字を追う時間があるのならば、生活していくための仕事をするべきだ。

「相変わらず、仕事一辺倒の人間だね」

「仕事をほったらかして物語に沈む君にほめられるとは光栄だ」

「一応やっているよ? 店番」

「君は店で商いしようという意思がないだろう。それを仕事をしているとは言わないよ」

「まぁ、君のように常に動かないと生きていけないという人間じゃないからねぇ、俺は。こうやって店の中にこもるのが、世界的に一番平和なんだと思うよ」

「……それはどういう意味だ?」

視線を向ければ、返ってくるのは虚ろな微笑。

世界から見放されたのではない、世界を自ら見限った者だけが放つことのできる、微かな狂気で鮮やかに彩られた澄み切った微笑み。

それを見た私は殆ど反射的に、胸元に手を伸ばしていた。

手の行く先を止めたのは、どこか骨を思わせる白さの、夜見枯の手。

「それはいけないよ。我が友人」

「……動悸がしただけだよ、夜見枯。君のせいだ。ぞっする顔で笑うのが悪い」

「まぁ、それは認めるけどね。けど、カッカしちゃあいけない。ここはこんなに静かな世界なんだから。君もゆっくり寛ぐべきだよ。ほら、珈琲でも飲んで」

「私が淹れたんだがね」

言われるまま、珈琲カップへと手を伸ばし、一口啜る。

この幻想のような穏やかな空間の中で唯一、現実を思い出させる強い苦味が舌に広がった。

空気が少し緩んだ中で、あぁ、と夜見枯が無邪気に微笑む。

「ところでさ、君、あそこに控えているお友達の様子を見に行ったらどうだい?」

「は?」

「連れてきているんだろう。この閑古鳥の鳴く店に、特別なお友達を二人ほど」

「……」

ガチャ。

静かな空間には似つかわしくない、強い音が響いた。それは私が出した音。

珈琲のカップを置いた音と共に……夜見枯千明に、銃を向けた音。

私は自身に最大の警鐘を鳴らしながら、それでもプロとして冷静に友の言葉を聞くことにする。

「彼らはプロだ。気配は消している。どうしてわかった、夜見枯」

正直に言おう。私は、銃口をこの男に向けることになるとは思わなかった。

だから、心底不思議で問う。

今、銃口を向けている男は、本当に何でもない古書店の店主なのだ。

少し雰囲気が特殊で、少し目に狂気が宿っているだけの、一般人。

しかし、一般人であるはずの夜見枯は、先ほどと全く変わらない親しげな微笑みを向けてくる。

銃口を、前にして。

「言っただろう? 君は面白い物語を連れてきてくれる。そういう意味で、君はこの店で一番の上客だ。だから、大抵のことには目を瞑ってきた」

「大抵……?」

口では冷静を装いながらも、だんだんと戦慄を覚え始めてきた。

銃口を前にしても恐怖をおくびにも出さない男。虚勢を張っているわけではなく、ただ先ほどと同じ空気を継続しているだけ。

そう、私が持っている物が銃であっても珈琲カップであっても関係ないと言わんばかり。

「君は仕事の後、必ずここへ来てくれる。身を隠すためにね。ひとしきり話をして、あとは君の仲間が遺体を処理してくれているんだろう?」

「っ……!」

バレていた。その事実だけで冷酷に引き金を引こうとした、のだが。

「な………」

躰は、動かない。

「珈琲は苦いからね。苦味は人間が最も感じる味の一つだ。少し痺れ薬が入っていても気づかない。だから俺は嫌いなんだよ」

「どう、して……!」

何もかも、わからなかった。

珈琲を淹れたのは私だ。痺れ薬を入れたのも私だ。しかし、なぜ私のカップにそれが入っている?

仲間を引き連れていたが、彼らは夜見枯が万が一の時、すぐ飛んできて彼を消すはずだ。

声は届いているはずなのに、彼らは動かない。

私の問いに、彼は満面の笑みを浮かべた。

「君の物語を、〈喰った〉からね」

「な、にを、いって」

「君は覚えておいた方がいいね。平々凡々なサラリーマンだから、仕方ないんだろうけどさ。世の中には至極つまらない世界で退屈を嫌う怪物が棲むってことを、忘れちゃいけない」

夜見枯は立ち上がると、酷く優雅な足取りで入り口のドアを開いた。

どさり、どさり。

倒れるのは、仕事仲間である男二人の体。

その顔は、怪物を見たような恐怖に引き攣ったまま、時を止めている。

「お前が、やった、のか」

「失礼だなぁ、仮にも友人だろう俺は。少しは信用してくれよ。うーん、訳が分からないって顔だな。じゃあ少し説明してあげよう」

夜見枯は胸の前で腕を組み、やれやれと首を振る。

「君は常識の範囲内で生きている人間だから、あまり詳しくは説明できないんだけどさ」

そう前置いて、彼は教師のまねごとのように人差し指を立てた。

「彼らを殺したのは、君だ」

「は……?」

「俺は何もやっていない。しいて言えば、君の〈物語〉を食っただけ」

「わから、わからない……何を言って、いる」

「俺は人の〈物語〉を食うんだ。いや、吸収しているという方が正しいかな。普通の人間でいう空気のようにね。もっと厳密に言うなら、例えば――」

夜見枯は近づいた。私に。

友人のような気さくさで。殺人鬼のような気軽さで。軽妙な道化師のような足取りで。

彼は私の肩に手を置いた。骨のように白い手。

「君の人生を、俺はすべて視る。そして、君がひた隠している〈未知〉の部分を暴いて、喰う。今回の場合、俺に隠していたのは君が「殺し屋」だって事実だよね。だからそれを〈食った〉。今までは君が訪れるたびに隠してきた〈殺し〉の事実を食ってきた。……愉しかったよ?」

怪物は、嗤った。

「今までは君の命には直接関係のない〈未知〉だったからね、君の命は無事だった。けど、今回、君は俺を始末しようとしただろう?」

「だから、報復に私を殺すのか……」

動かない体で、唸る。

呪えるのなら呪い殺してやりたかった。仲間を殺し、あまつさえ自分を殺そうとするこの男を。

しかし、彼の顔は私の言葉にはっきりと驚愕の色を浮かべている。

「まさか! 言っただろう、君は俺の友人だ。実のところ食べちゃったから君の名前は、もう忘れちゃってるけどね。君みたいに銃を持っているわけでもないのに、どうして俺が人を殺せるんだい?」

「な、貴様はあいつらを殺しただろう!」

仲間二人を。

「だから言ったじゃないか。殺したのは、君だ」

何を言っているのか、まったく理解できない。

夜見枯は慈悲深ささえ感じる穏やかな顔で、すっと私の視界を覆う。

「良い夢を見るといい。俺を楽しませる、酔い夢を」

・ ・ ・

情報が入ったんだ。

情報が入ったんだ。あの二人が、私を裏切って暗殺しようとしていると。

――情報を与えたのは、誰です?

私の雇い主だ。私は、いつも隠れ家にしているビルに潜伏し、いつも通りにしばらくの間身を隠すつもりだった。そうしなければ、君たちにつかまってしまう。けれど、彼らは来てしまった。二対一。もう選択肢はなく、私は躊躇わずに彼らを撃ったよ。

――警部、自白しました。

・ ・ ・

夜見枯千明は、今日も本をめくっている。

一人がけのソファに、だらしなく器用に体を横たえて。

もはや誰も来ない店で、何時までも本を読み続けている。

活字の海に身をゆだね、彼の周りを取り囲む空虚な世界の女神の侵入を許しはしない。

――しかし、本は終わってしまう。

空虚な世界の女神は、その隙を突くように、粘着質な恋人のようにするりと彼の脳を直接なでる。

ああ、なんて不愉快な。

「—―退屈は敵だよ。君はいい友人だったけど、〈物語〉の結末は全然楽しくなかったね」

怪物は、女神の腕に抱かれながら気だるく言う。

次に訪れる〈未知〉の物語まで、彼は憂鬱と本と共に、待っている。


#教養のエチュード賞



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