ランタンの灯が点る理由 #ナイトソングスミューズ
からりん。
グラスと氷が弾け合う音が、見えない漣を広げた。
机に置いたグラスは二つ。下町で作られた切子のタンブラー。
やわらかく溶ける氷に、1/fに揺らぐ夕焼けより少し暗い色が宿る。
・ ・ ・
机に座るのはわたしだけ。
波打つ琥珀色を眺めているわたしは、孤独を味わうために煙草をふかす。
すると、ほら。
ふと空に向けていた眼を戻せば、向かいに行儀よく座る、銀色のワンピースを纏う女がにこりと微笑んだ。
からりん。
グラスの中で、透明な氷がふわりと躍る。
女の到来を喜ぶように、孤独の時間が閉ざされた鐘を、氷と硝子が笑いながら鳴らす。
「知っている?」
女は歌う。歌うように喋るのが、この女の特徴だ。
「わたし、もうすぐ死ぬの」
小首をかしげながら、グラスを持ち上げる。動きにつられて、薄水色の髪が、はらはらと零れ落ちた。
ランタンの灯は、彼女の手を真珠色に映し出す。それを横目で見ながら、彼女が琥珀色を嚥下する音を聞く。
淫靡な音だ。
硝子と液体が擦れ合い、真っ赤な女の唇が透明の上に這う。
吸い込まれたら、そのまま堕ちてゆくままになる琥珀色の瞳は、まっすぐこちらを見上げている。
誰よりも女を意識させる艶めかしい動きなのに、それをぞっとするほど感じさせない純白さ。
喉を焼く液体を飲み干したためか、彼女の顔に暖かい色が灯る。
それなのに、彼女は「死ぬ」という。
まるで『夢十夜』だ。
ちびり、と琥珀色の液体を唇に付けながら、生まれて初めて感銘を受けた小説を思い出す。
美しい女が、隣にいる。
その女は突然、瑞々しい生気を保ったまま終わりを告げる。今の状況とそっくりだ。
あの作品だったら、女は自分の体を地面に埋めてほしいというだろう。
では、地面からは程遠い、ここでは?
わたしの考えを見透かすように、女は透明無垢に微笑む。
ランタンの灯を真珠色で返す白い腕が、するりとわたしへと伸びてきた。
女は、透明無垢に、微笑んだまま。
「いっしょに、行きましょう。孤独に浸り、孤独を楽しみ、孤独に憂い。そうしながら5000年、私を待ち続けていたあなたなら、きっとこの手を取ってくれると信じてる」
・ ・ ・
――2020年。
とある流星が、彗星へと変わった。
突如、強い輝きを放ち始めた彗星は、二つの尾を引き、とある惑星を訪ね、再び深淵の闇の中へ旅立っていった。
・ ・ ・
わたしは、ランタンを灯すことにした。
彼女が去って、数十年、いや、数百年? 数千年?
ともかく、それぐらい果てしない時間が流れた時、ふっと思い立ち、古びたランタンに永遠に燃え続けることになる火を灯す。
しがない小説家であるわたしは、女神を待ち続けると決めた。
書き連ねた文章たちは、いつしか小さな輝きを宿して私の手から離れていった。
遠い場所から、それを「星座の神話」と呼ぶ声も聞こえることもあるが、あまりに小さな声なので、わたしは声をかけることはしない。
わたし自身が、その声達に呼ばれることもある。けれど振り返ることはなく、また反応することもない。
その声を恋しいと思うこともあるが、孤独というものを選んだからには、どこまでも暗い深淵の中でそうせねばならぬと思ったのだ。
わたしの友は、途切れることのないランタンの灯。
わたしの想い人は、今もはるか遠くで、暗闇を旅する女神。
しかし、彼女はいつしか燃え尽きるだろう。その時には、このランタンを目印にして、彼女が訪れてくれればいいと願っている。
いくらでも待とう。
わたしたちが、共に手を取り合って再びの旅に出るまで。
・ ・ ・
彗星の終わりを知っているかしら。
戻りたいと願うものは、無数の星になって流れることもあるらしいけれど。
わたしはちがうわ。
わたしは、彼と共に行く。
ずっと同じ場所に座り続けて、ものを書き続ける彼に、もう一つの理想郷を見せに行く。
それが、私がさすらい彷徨う理由なの。
さあ、わたしの尾につかまってちょうだい。私の手を握ってちょうだい。
わたしに、あなたの孤独を癒す権利を与えてちょうだい。
あなたが、私の孤独を癒す特権を持っているのだから。
・ ・ ・
もし、8070年の時間が経ったなら。
その星に住む生き物たちは、空を見上げることでしょう。
再び訪れる女神と、かつて物語を紡いだ者とが手を取り合って、帰ってくるのだから。
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