見出し画像

ナナハムラサキを追って

 こちらはひかりのいしむろさん主催の「石と言葉のひかむろ賞vol.1」のサンプル作品となります。テーマは「愛の漣(さざなみ)」です。

・ ・ ・

 ナナハムラサキの大群が飛んでいる。

 鉱物で出来た紫の翅を持ち、きらきらと星屑のように輝く鱗粉が軌跡を描く。

 僕らの世界を。僕らの時間を。僕らの間を。

 ナナハムラサキの大群が飛んで行く。どこへ行くのかと不思議に思い、僕は鞄を肩に担いで、その蝶の群れを追う。

・ ・ ・

 長い間、蝶の大群を追っていた。

 僕の高かった声はすでに低くなり、背も伸びた。

 僕は少年ではなくなるんだーーそんな時、初めて、一羽の蝶が群れから離れた。

 僕は、慌ててその一羽を追う。

 蝶が鉱物の軌跡を刻む先に、僕と同い年ぐらいの女の子が立っていた。美しい絹で織られた衣に包まれた華奢な肩に、ナナハムラサキが舞い降りる。

 彼女は、ナナハムラサキが留まって驚いている僕を可笑しそうに見つめた。

「はじめまして、旅人さん。私はカラヌ。あなたの名前は?」

「僕に名前はないんだ……好きに呼んでほしい」

 その子は、その村で「巫女」と呼ばれていた。美しい絹の衣と、頭から紗を被り、その面立ちはうっすらとしかわからない。ただ、とびきり美しい少女だ。

 僕は、その村で旅人として歓迎された。ただ、誰一人として「ナナハムラサキ」の存在を知る人はいない。それは、歓迎の宴を催したカラヌでさえそうだった。

「鉱物の蝶? あなたはそれを追ってこんな辺鄙なところまで来たの?」

「僕の住んでいたところの方が辺鄙だったんだろうね。このご馳走を見ると」

苦笑いしながら言えば、紗を取り去った彼女の美しい顔が眩しく微笑む。

「面白い人ね。ねぇ、その鉱物の蝶は、私の肩にまだいるの?」

「いるよ」

「そうなんだ」

 そういった途端、僕は盛り上がった参加者の一人に誘われ、酒宴へと誘われた。初めて飲む酒という飲み物は、酷く喉を焼くけれど、その香りは抜群の代物だ。

ーー僕は酒を勧められるまま、いつの間にかその場で眠りこけてた。

・ ・ ・

 歌が、聞こえた。

 ぼーっとする頭で周囲を見回す。僕と同じように雑魚寝する多くの男たちと、呆れ顔で酒宴の片付けをする女性たち。

 起き上がった僕を気遣ってくれる彼女たちに、歌はどこから聞こえるのかと尋ねた。

 「ああ、カラヌさまが歌っています。毎朝、豊穣の大地に捧げる歌ですよ」

 「どうぞ、お訪ねになってみてはいかがです」

 言われ、僕は酒が一切残っていない体で(というか、普段よりも軽くすら感じる)カラヌの歌が聞こえるほうへと足を進めていった。

 カラヌの館から少し行った場所に、小さなせせらぎがあった。

 そこに足を浸し、腰を浸し、薄い衣をまとったカラヌは目を閉じて一心に歌っている。

ーーーこの世の総ての争いごとがなくなりますように

ーーーこの世の総ての苦しみがなくなりますように

ーーーこの世の総ての痛みがなくなりますように

ーーーこの世の総ての人が幸せでありますように

 紡がれる豊穣の歌に合わせて、彼女の方に留まったナナハムラサキの翅が震えている。

 僕は、ぞわりと背筋が興奮で粟立つのを感じた。

 今、彼女の背中に「世界」が委ねられている。

 大いなる自然の望みを、あまねく人々の望みを、彼女はその小さな口から歌にする。

 彼女の小さく可愛らしい唇からこぼれ落ちる声は、空気に触れた途端、ぐんと翼を広げる鳥のように音を広げていくーーその様が、見えた。

 彼女の歌声が、形を作る。彼女の旋律が、翼を生み出す。

 そうして僕の前に顕れたのは、透明な瞳を持つ、僕よりもはるかに巨大な、真珠色の羽を持つーー。

 僕は小さく呟いた。「不死鳥だ」

 不死鳥ーー世界のどこかを飛び続けている、生きとし生けるものすべてに豊穣を齎すといわれる伝説の鳥。

 彼女の口から生まれ、迸る膨大な生命力。風になびいてゆく美しい旋律。世界の願いを胸に抱き、飛び去ってゆく一匹の巨大な白亜の鳥。

 僕がその鳥を追おうとして翻ろうとしたときーー。

「待って!!」

 くんっ、と。

 僕の袖は掴まれた。水を滴らせたカラヌに。

 彼女は、初めて会った時とは違う、紗にさえぎられていない美しい顔を悲しみに歪ませていた。

 「もう、行っちゃうの……?」

 「カラヌ?」

 「あなたは、私達には見えないものが見える人。私には貴方の言う蝶は見えない。私には……あなたが何を探しているのか、わからない」

 でも、と、巨大な鳥を生み出すことのできる少女は俯いた。

「私、待ってるわ。あなたの名前を、それまでに取り戻しておく。ーーだから、必ず戻ってきて」

「取り戻す?」

「そうよ。あなたの名前は、忘れられているだけだから」

 そういって、彼女は、ゆっくりと僕から離れていった。自分の館に、蝶を肩に乗せたまま。

・ ・ ・

 ーーーあれから、何年経っただろう。僕はもう、少年とは呼べない年になっていた。カラヌが生み出した白亜の鳥を追い、僕はただひたすら歩き続けた。

あの不死鳥は、「豊穣の歌」から生まれたもの。

 不死鳥の軌跡はキラキラと雪のように美しく、鳥が羽ばたいた後に生まれるのは無償の幸福だ。

 不幸な人には、ささやかな幸せを贈る鳥。

 心安らげぬ人には、小さな安らぎを贈る鳥。

 苦しむ人には、少しの安らぎを贈る鳥。

 鳥を追う僕は見た。カラヌの歌が、笑顔を人々に贈るのを。

ーーーじゃあ、僕は?

 ナナハムラサキを追ってるとき、僕は無我夢中で、心の底から楽しかった。

でも、カラヌに出会って、僕は心のどこかで冷静になってしまっている。

鳥を追うことに、何の意味があるんだろう。

ナナハムラサキとは、一体何なのだろう。

「……少し、疲れたかな」

僕は、己の心が折れた音を聞いた。

僕は、自分の足が崩れ落ちるさまを見た。

僕は、僕のなしていたことに何の意味も見いだせなくなった。

思ったことは、ただ一つ。

「ーーーカラヌに、会いたいーーー」

 紗を纏った美しい少女。世界の慈愛の化身を生み出す力を持った、優しい心の持ち主。

 ーー僕が初めて恋した君。ごめんね、戻ると約束したんだけれど……。

 少年は男になっていた。それは、老年と呼べる齢になっていた。

 彼は何者かに取り憑かれたように生まれた場所を出て、歩き、歩き続けてーーー息を引き取った。

 白亜の鳥が、ゆっくりと彼の亡骸へと舞い降りる。

 豊穣を約束する不死鳥もまた、その体に込められた「豊穣の力」は淡く、果てる寸前の状態だ。しかし、白亜の鳥は、彼の亡骸を包み込むように抱くと、再び、最後の力を振り絞って空へと舞い上がる。

・ ・ ・

 白亜の鳥は、ぱらり、ぱらりとその体を崩してゆく。男の亡骸を胸に抱きながら、その欠片は紫に輝く欠片へと変化する。

ーーナナハムラサキが、生まれる。

 生まれた無数のナナハムラサキ達は、一度不思議そうに宙に落とされた後、自分の在り方を突然思い出したように、その鉱物の翅を羽ばたかせて一直線にあの場所を目指す。

 自らが生まれた場所へ。自らが求める場所へ。自らを待つ者がいる場所へ。

・ ・ ・

ーーーおかえりなさい。おかえりなさい。おかえりなさい。

心の底から、聞きたかった声がする。男の魂は、うっすらと目を覚ました。 

 とても嬉しそうな声だ。ああ、一体どれぐらい待たせてしまったんだろう。ごめんね、カラヌ。

ーーーいいのよ。わかっていたから。あなたが帰れないことは。けど、還ってくることはわかっていたわ。

ーーー不思議なことを言うんだね、カラヌ。どうしてそんなことを知っていたんだい?

ーーーだって、あなたは「蝶」を視る人。私たちは、それを「魂」と呼ぶのよ。

ーー魂?

ーーあなたが私の肩に留まったという蝶。あれは、あの時亡くなった私の母の魂。だから、あなたも、きっと戻ってきてくれると思っていた。

ふわり。蝶が舞う。男はあれほど追い続けていた「ナナハムラサキ」に自分自身がなっていることに、今気づく。

そうか。そうだったんだ。

 カラヌが生み出した白亜の鳥が「世界の慈愛」であったなら、「ナナハムラサキ」は「人の慈愛」が形になったもの。

 男は、ナナハムラサキからカラヌと出会った時と同じ姿になった。カラヌは、年老いながらもあの頃と同じ美しさを宿し、愛する人を見つめている。

「ただいま、カラヌ。たくさん話したいことがあるんだ。君が祈ったことがどれほどの奇跡を起こしてきたか。僕が、どんな世界を旅してきたか」

「ええ。ええ。時間はたっぷりあるわ。話してちょうだい。ーーああ待って、その前にあなたとの約束を果たすわ。あなたの名前を、教えてあげなくっちゃ」

「お願い、聞かせて」

男は、こつんとカラヌの額に自分の額を当てて、笑う。

「おかえりなさい、ナナハ」

 カラヌは、紫色の瞳をした青年を愛おしそうに見つめながら、彼の肩に顔をうずめる。

「……やっと、あなたの名前を教えることができたわ」


読んでいただきありがとうございます。 頂いたサポートは、より人に届く物語を書くための糧にさせていただきます(*´▽`*)