虐めは無くせない それを知らなければ 世の中は変えられない
虐めのニューズが流れた朝に
虐めのニュースで心が痛む
本当に心が痛い
なぜ?
どうして?
そう思わないではいられない
毎年多くの虐めが報道されるけれど
減ることは無いように感じる
何とか出来ないのだろうかと・・・
自分なりに考えた結果
残念だけれど
虐めは無くならない
その根拠は、このあと書いていくのだけれど
無くならない事を受け入れて
考える事を諦めないことが大切
無くすことは出来ないならば
本質を理解して減らすことは可能なのか
今よりも、減らすことで
救われる人が現れるなら
それは無駄じゃないと
なぜ? 虐めは無くせないのか
虐めの本質は、虐める側にある
よく、虐められる側にも問題がると 平気で言い放つ人がいる。
けれど、それは間違いだと思う。
なぜなら、虐められる側にも問題があると言う主張は、虐めるという行為を一部でも正当化したり、弁護する事になるからだ。
仮に虐められる側に何らかの瑕疵が存在したとししても、虐めという行為で、相手を傷つけることが認められるべきではないし、被害者側の言動、行動でとは一旦別問題として考えるべきだからだ。
つまり、単純にみて、虐めという行為を、虐める側の人間が、虐められる人間に対して行われる、行為として捉え、そこで行われる極めて良識と常識とから逸脱した行が、それを受ける人間を傷つけることを認識すれば解りやすく、被害者側の責任を議論する以前に、この行為を無くす必要を認めるべきだと考える。
現実 日常の中に虐めは存在する
なぜ 虐めはなくならないのか?
現実には、いじめる人間を無くすことは難しい。
どんな教育を持ってしても、いかに啓蒙活動を持ってしても、さらには懲罰を科しても無くならない。
その理由は、誤解を恐れずに言うならば、”人間の本質” がそこにあるからと結論づける。
世の中には、人を虐めて喜ぶ人間が居る。
さらに、自身は手を下さなくても虐め行為を見て喜ぶ人間がいる。
俄かに信じられないけれど、あたりまえの日々の生活の中に、程度の差こそあれ、事実として行われている行為だといえるからだ。
私自身、60年近い人生の中で、至る所において、この虐めを見てきたと思う。自身が当事者である場合もそうでない場合もあって、けれど常に身近に存在したし、存在している。自身が目撃者である場合も、被害者になったことも、時には加害者であった事すらあるのだ。
そして、これは、私以外の誰にでも同じだと思う。その自覚が自分にあるかないかの、その程度がどうなのかという差があるだけで。
人間の本質は性善説では片付かず、人間は合理的でもないということ
こう言われると だよね という人と、そんなわけないだろう という人に別れるとは思う。中には性善説で片付いて、常に合理的に解決できる人もいるだろう。その片方だけを持ち合わせるひともいる。人は多様だから。
けれど仮に、 今日 ”自分は愚か者だから、何かを成し遂げられなくても、せめて、人様を傷つけることだけは止めよう” または、”合理的にものを考えて、今日からは無駄なエネルギーをかけるのはやめて生きていこう” そう決めたとして、実行できる人がどれだけいるか、その人がマジョリティーになりえるか。
人は・・・
人は、生き物として本能を持つ 人は欲望を持つ 人は絶対評価 だけでは満足できず常に、相対評価が必要だ 人は常に愛に枯渇している 人は競争を望む 人はホルモンに左右される 人は快楽に従順だ
ひとより 良い学校に行きたい 人より良い会社に入りたい
ひとより お金持ちになりたい 人より権力を持ちたい
美味しいものが食べたい 綺麗なものを手に入れたい
高価なものが欲しい 美しくなりたい 気持ちよくなりたい
楽したい 努力したくない 養って欲しい
誰かを服従させたい 誰かを養いたい 愛したい 愛されたい
望みには極めて従順なので 人間は時に合理的に動けない
子孫繁栄とは無関係の性行為 健康に寄与しない美食飽食
お金をかけて美味しいものを食べた太った 金を掛けて痩せよう
小さな段差を超えられない巨大な二人乗りの車を買い求め 普段使いに不向きだからともう1台買う
使い切れない金を、投資に費やす
〜したい 〜でありたい 〜が欲しい 総てNGだったとしたら
ストレスになる
不満が募る
感情は 悲しみ 絶望 不安
感情が変化して 怒り 憤り 爆発
そのベクトルは 時には内に向いと さらに時には他人へ
虐める側の 虐める理由
今まで書いたことの中に虐めの本質の一部があると感じる
それはやはり、虐める側は人間の持つ本質に翻弄されている
虐めることで 快楽を得る
虐めることで 周りが注目してくれる 狂った承認欲求
怒りの発散 怒る原因と怒りの向きが一致しない
権力の行使 人を従わせる人間になりたい欲求
多くの理由は 加害者と被害者の利害対立ではなく
加害者の欲求の向かう一方的に選抜された対象が被害者になる
虐めの本質
虐められる側にしたら、理不尽な災難 であり、まるで容認できるものではない。
虐める側に、正当な理由などなど存在しない一方で、理不尽極まりないけれど、虐める側にはある種の目的やそこに向かうモチベーションの存在がある
ことが推察される。
さらに、重要なのは、虐める側は 一定 虐められる側よりも、上位のポジションがある場合が多かったり、集団の中で影響力を持つ人間ケースが強い、なぜならば 不特定の一人を虐めることが出来る事は、誰にでも出来ることではないからだ。
学校ならクラスの実力者、企業や部活動なら先輩、上司 等がこれにあたる。こうなると、周囲も止め難いという不幸な現実が発生する。
被害者には、どんどん逃げ道が狭くなるという事だろう。
こうなると救いは無いのか・・・・
本質が見えたら 解決が遠のいた
どうすれば、減らせる
被害者の多くは、悲劇のアピールを試みた、けれど虚しく届かず
もうどうすれば
被害者側はターゲットである以上は、加害者側が行為を止めてくれなければ解決しない
まるで、過去の歴史上の悲劇と同様に、それは、後に検証され、行為を行った側は強く避難されるかもしれない けれどそれでは 遅すぎるのだ
逃げれるか 戦えるか 話し合えるか 仲裁を依頼出来るか ??
被害者は逃げるしか無い けれど、加害者は執着して追ってくるかもしれないし、現実面で逃げののは、部外者の意見に留まり現実には、文字通り一時しのぎ、その場回避でしかないし、逃げることで 相手を焚きつける
ならば、窮鼠猫を咬み 戦えるのか それが出来ないから辛いんだ それが出来ても返り討ちに会う 時には真逆に 相手を傷つけて自らが加害者になって罪を負うことすらもある
話し合いは聞く耳を持つものとだけ成立する 無理だと思えてしまう
他人ほどあてにならないものはない、
メッセージ
これを読んでくれる人の中で、虐めを社会問題として感じて読んでくれている人は、それこそ有り難いのだけれど、この人達に関して、書き手である私は、持論を展開すれば良いだけだ。問題は、今 虐めに遭っていて この文章の中に救いを求めたい人が居たら、ここまで書いてきたことは、何の助けにも救いにもなっていないだろう。
実は、学生時代も、社会に出ても、一度や二度ではなく、それもかなりの程度で不幸な虐めに遭遇した事のある私が、この問題にどう対峙したかを書くべきか、今悩んでいる。ただ、それをここに書くことで、希望と勇気を与えても、それを実践することの、是非 それを行った結果がを必ず良い方に回ると確信を持っことが出来ず。
無責任なアドバイスが危険なことを案じている。
だから、具体的には書かないけれど、メッセージとして以下に載せておくことにする。
◎自分を裏切らないで
無限の我慢は絶対にせず、我慢の限界線を決めておく 限界線を超えたと判断した時には、絶対に自分自身が許せない自分にならないこと、自分自身を俯瞰して、自分を護るために何が出来るかを考えて、それに全力を尽くすべきだ。 そのためには、何よりも自分を理解すること。
自分が許せること、許せないこと、許容すること しないこと 出来ないことを決めて、決めたら決め事を守ること。
相手に理屈は通用しない、善悪は自分よりも公な物差しで測り
そして、一度(ひとたび)決めたら Do as possible
一方的に、外からの行為なら、 行為を行う側が止めない以上は、受け手が対策するしかないから、戦う必要はないけれど守る必要はああることは、考えないといけない。
【時に 国も 個人も同じ 護るためにすること】
それでも撃たない、撃たれた時点で勝敗は既についている
それでも、我々は撃たない
それは、無駄ではない筈だ
一方で防護のためには 動く時が来る
このドラマは、とても考えさせられる
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