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love standards


面倒な日々
お天気は最高
気温だって 湿度だって そう
昭和の言葉を借りれば 差し詰め #おあつらいむき  というワードが想像できる。
カッコイイ銀幕スターが 「そいつは おあつらいむきだぜ」とタバコを咥えながら言う感じだ。

あの頃の映画には、今の時代なら放送できない言葉もあるのだろうか?
でも、映画の中で描かれた時代には、今失われてしまった良さもある。

このところの世の中は、わざわざ物事をややこしくしている気がしてならない。

ジェンダーを語った瞬間に問題は消えていない


#ジェンダー問題  もそう 男が男を愛そうが 女が男に惚れようが 女が女と一緒にいたい、触れたい抱きしめたい と思おうが、そこに二人の合意がありさえすれば、他人がとやかく言うべき問題じゃないと思うわけで。
愛しいと思う相手の性別がどうであれ、それはもはや意味などない。
冷静に考えても、男女間の婚姻と 同性間の婚姻に法律上の問題があり、
よく聞く話では、相続や、命に係る場合の病院の対応など、行政手続き上の問題も指摘されている。

時に???してしまうのが
あれほどジェンダーフリーうったえる人が
自分のパートナーが他人と交わった事で激怒するのはわかるけれど
それが、異性であることが許せないと逆上した場合に
怒りの根本がどこにあるのか、とても??
思ったりする


ある意味で、法律は人が作ったものであるので、法律は遵守するのは大前提としながらも、不都合が生じているのなら変えることが出来るはずだ。
現行法では、実務面で問題があるのなら、それこそ法改正を考えるべきであり。仮に、問題点があると思われる現行法の範囲で争っても、現行法の範囲でしか判決は出ないことに、目を向ける必要を感じる。

法治国家において、法律は常に守らねばならないものであるけれど。
裁判においては、法律という物差しにたいしての、合っているか否か、法律において、合法化否かであり、必ずしも法律に照らした結果が、極端に言えは、世のため人のためになる判断が出るとは限らないし、もっと言えば、法律により認められた行為であって、それが正義であるとは限らない 法には限界もあると私個人は感じている。
といえ、法律があるからこそ、我々は日々、この生活を維持てきている事は間違いない。

常識でものを測る風潮 正しければ他人を責めても良いのか?

ネット社会が悪いとは言わないが、他人事とそうでない事の線引が曖昧になって、傷つく人が出てきていると感じる。
親が我が子の交際相手をとやかく言うのは解る。
親なら、我が子の幸せを思っての事という立場も感情もあるから、どうしてもリベラリストではいられない。
けれど、赤の他人が、同じレベルで、他人様のお付き合いを、論じるならまだしも、ネットを使って意思表示する社会もまた気持ちが悪い。
ニュースに出てくる人や、有名人などに対して、世間がいう。
そんな、相手を選んだあなたが悪い とか そもそも、その交際はいかがなものか?とか・・
さらに、それだけならまだしも、そのコメントに色濃く感じるのは、正論を言っているのだから自分は正しい、みたいなエビデンスだ。
多様性のある意見を、皆で議論する場で活発に言い合うのならいいが。
他人様には関係のないネタでも、正論だから言ってあげてもいいでしょう。
だって、こちらが正義だから みたいな風潮に恐怖を感じる。

これを世論と言呼ぶのか、他人様の色恋まで民意が反映される必要はない。
だから、これを仮に世論だと決めたたとろで、無視している世論だ。

恋をする相手がどうであれ、人は恋をする 当事者として恋をする
相手が尊敬できる相手だろうが 相手がある意味で尊敬とは別に堕落しまくりの。よく言う悪い相手だとしても、人が人を愛しいと思う事に変わりはない。
こうなるともし相手が詐欺だったらどうだとか、飛躍した論点を出してくるのも、今の風潮としてはある。
詐欺を、未然に防ぐために、他人の意見も無視できないとか・・・
これもふくめてだけれど。

人のことが気になる人とは 

#今の社会は自由度が減った気がする
言葉の上では差別を無くしたと言いながら、むしろ不自由になっている気がしてならない。これはなにも、日本だけのことじゃなく。

例えば、パワハラを繰り返す人は、世の中がどれほど啓蒙しても、本人はどこ吹く風で、根っこの意識が変わらない。さらに悪いことに、それでも、その地位にその人が留まることを社会が容認していて、権力を与え続ければ、もはや改善すべきところでは改善は進まず。パワハラ、セクハラ、様々な問題に、一定の認識理解をしている人間は、必要以上に神経質になり、言うべき発言、するべき行動に過度な抑制が働いてしまう。

つまり、正しい自由を行使する能力が自分にあると確信できないと、抑圧を貸した生き方で無難に生き抜くようになる。その反動で、誰もが正論と認める部分に対して、グレーだと、それが直接の利害のない相手の行為だとしても、吊し上げてガス抜きをする。

これは、あまり健全な生き方では無い気がしてならない。

使い古された言葉で言えば

僕らは、愛を持って生きて行きたいと思う

恋でもいい 家族愛でもいい 友情という愛の形でもいい
自分と接する人々に愛を持って接する
それでも僕らの社会はフェアではない
時に、他人に傷つけられたり
騙されたり 落とされたり
そんな事も当然あるさ
その時は、素直に怒る力も持つっべきだと思う
利害のない第三者をコメントで責め立てるよりも
するべきことは他にあるのだから

その上で、愛情と感情を素直に持って日々を過ごす
それが今を生きるために必要だと感じている。


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