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アキレス腱 さる国の仕組み


Note の書き出しはありがたい なぜなら、#ご自由にお書き下さい 記載されているからだ。 僕はここでお言葉に甘えることにした この物語は、どこにも無いさる国を想像の中でかいたものである。 僕が、空想上の さる国に住んで56年が過ぎた、過去日常の生活で、この国を幻滅したことは、あまり無かったのだけれど、この2年間は、#幻滅 という感情が付き纏っている。 ここ2年、疫病の蔓延で、この国の今まで見えなかったものが、一気に溢れ出したという感じがする。それは、政治の部分であったり、行政であったり、まるで、三権分立をうたうこの国の制度の要のうち、立法と行政が、機能しづらいと言う事が、今までは漠然とした不安程度だったものが、実例を示して見せてしまった、という事だ。この国は、10年ほど前にも、大変なことが起きたのだけれど、その時は、少なからず、必死に対応した。対応の良し悪しの議論は歴史の判断に譲るとしても、その時、それぞれの人々が、出来ることをした事で、この国をなんとかしたいという危機意識の共有が出来たことだけは、事実だったのかもしれない。 残念なことに、今回は、責任を撮りたくない、という流れが蔓延する。行政は、何もしないことを、法律が無いから出来ない、法律さえあればと、言い訳をしたり、何をするにも専門家の意見を聞いてと腰が重いが。むしろ、専門家が必死に訴える様な事が打でさえも、腰が重く、肝心の専門家の意見さえも無視する。テレビでも、法律が無い事の問題は絶えず、主張されているが、前に進まず、にも関わらず、立法は、疫病とは関係の無い、自分たちが望む法律は、着々と審議されていく。不思議すぎる話がまかりとおる。 行政の言う、法律が無いのは確かに、そうなのかもしれないが、現行法の範囲で出来ることを考えることは、なぜしないのか?  彼らは、不思議な考え方をする生き物の集まりなのだろうか? 彼らが良く使う言葉 #制度設計  これが、実によくわからない。彼らの行う制度設計とはどうゆうものなのだろうか? 一度決めた制度に、かりに瑕疵や、運用面での不合理などがある場合、彼らは速やかに、その部分を認めて、修正するというのが本来の形だと思える。とはいえ、本来は間違っても、瑕疵などあって良い筈はなく、内容を精査検証を重ね、あらゆるケースを想定し設計された制度なのだから、制度設計は慎重に慎重を重ねて行われるべきで、瑕疵は許されない。となる それほど慎重に作られた制度に瑕疵があった場合は、どうしたら良いのか。 瑕疵があってはならない制度なのだから、瑕疵があるはずがないのだから、何を言われても瑕疵はない、問題もない、万が一、この間違いのない制度運用で問題が発生したとしたならば、それは、制度を運用する人間の側に、瑕疵があるか、極めて遺憾ながらの、制度を運用する人間の側に、その制度自体を理解する能力がなかったということになる。 ひとたび、問題が発生した場合は、制度側の問題の検証よりも、先ずは、制度を運用する側の瑕疵を探す、そのエネルギーはかなり熱い。自分たちが謙虚になり、双方の問題点を確認するのならばまだしも、自分達にかかる火の粉を拭うための努力は、知力体力を動員する。その能力、使いどころを変えたら、課題なんて一瞬できえるかもしれない。重箱の隅をつつく というが、それこそ、重箱の隅をつついてまでも、99対1の、1を見つければ、この1で99を消し去ろうとする。 更に、悪いことに、監督官庁の指示は絶対だと言わんばかり、言われる側は、100%の服従を誓っているので、これに異議を言うものがいない。意義を言うものは、100%の服従の恩恵を受けていない者なので、冷静でかつ理屈が通るが、その中でも100%の服従の恩恵に、将来あやかりたい人間もまた、少なからずいるので、理不尽を受け入れて上を目指すものががいるので、アンチは、極めて少数派にならざるを得ない。 なので、監督官庁に監督される、団体企業には、反対勢力の火の粉は小さく、この勢力も、お上の意向を聞かずとも、恩恵派の企業上層部に根絶やしにされていく。 被監督団体・企業は 監督官庁の #お褒めの言葉  に弱い。お褒めの言葉を得るために努力する。なので、被監督団体、企業の方針は、お褒めの言葉をいただける仕事に重きが置かれ、さらなるお褒めを頂戴しようと躍起になる。さらに、そのお褒めを頂戴することが出来だ実務が、例の、瑕疵など存在しない制度設計からくるものであるから、推して知るべしだ。 冷静なところ、制度上の瑕疵は存在するので、どうしたら丸く収まるのか、そのためには、現行制度の中で、制度の瑕疵による、不都合を現行制度の中で修正する作業が#お褒めの言葉を頂戴する作業 となるわけだ。となると、監督する側は渡りに船で、この問題修正の作業は、大変に好都合なので、お褒めの言葉が上乗せされる。そうなると、よりプライオリティをおいて、この作業が行われるようになる。ここに、様々なリソースが集中して投下される。 お褒めの言葉には、金額明記の無い、プライスタグが付いていて。これが、将来的に、権限、権利、として、間接的マネタイズになっていく。 幼稚園でも教える、悪い事をしたら、「ごめんなさい」 と言いなさい。 大人の社会でも、「お詫びして訂正させていただきます。」 はいくらでもある。 「ごめんなさい」 とは 「遺憾」 という意味なのか。 「まことに遺憾」 をお詫びと感じることはできるのか? 「改善に努めたい」 は言えても 「本当に申し訳ございません、二度といたひません」 は言えないのか? 謝罪なのに、敬語はない この架空の国は 何年か先も存続できるのだろうか? この権力おごりと、腐った心根とその態度が、弱ったアキレス腱となり、いつか切れるだろう。

この暗い気持ちに対しては、以下の本が面白いかもしれない。

そのテーマがあるとしたならば。

【こんな国なら】【企業の側に問題がありすぎる】 【強くあれたなら】


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