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森博嗣『勉強の価値』

本書を読んだきっかけ

本屋で何となしに目に入り、帯の「子供が勉強しないのは、大人が勉強していないから。」に「我が意を得たり」と思い、勢いで購入し、読んでみた。

さすがにこの歳まで生きると、いわゆる「勉強」や「教育」に対する自分の考えは既にある。というより、ほとんど全ての人が学校や勉強をそれなりの年数経験しているので、大人になれば皆それぞれに考えていることはあると思う。

そうした上でも、本書を読んでみたのは、自分の考えを補強したり、また、著者は学問的経験も豊富なので自分の考えの発展に繋がるかもしれないなと感じたからだ。ちなみに著者は小説家(元は大学教員)であるが、著者の小説は読んだことがない(ミステリーには興味が無いので、読む予定も今のところ無い)。

本書のポイント

本書のタイトルは一応『勉強の価値』となっているので、本書の主張するポイントをその観点でまとめておき、自分でも考えたことをまとめておこうと思う。本書の述べる勉強の価値とは、以下である。

自分が作りたいものがまずあって、そのためには、どうしても釘を打たなければならないことが判明する。だから、釘の打ち方を勉強したい。そうなって初めて、その勉強に意味が浮上し、価値が生じるのである。
「勉強」が楽しくなるのは、そうすることで夢が叶うという目的が明確にある場合なのだ。こうなったときの勉強の楽しさといったら、ちょっとほかでは得られないほど凄いものだ。そんな状況で勉強をしたことがある人は、大きく頷くことだろう。もしかして、これよりも楽しいものは、この世にないのではないか、と感じられるほど、わくわくし、興奮し、生きていることの価値を実感できる時間になる。
勉強が楽しく感じられる条件とは、つまり「知りたい」がさきにあって、そのために勉強をする、この順番の問題なのである。 作りたいものがさきにあって、そのために釘打ちの練習をするのならば、楽しく感じられる。ただそれだけのことだった。

すなわち、「目的を達するために「勉強」が必要なことがあり、目的を達する手段として勉強の価値がある。同時に、そうした場合の勉強は何よりも楽しいものである」と考えればよいだろう。

著者の場合は、大学4年の時に研究を進めるための勉強が楽しくて仕方がなかったとのことで、その際にこの価値を理解したとのことのようだ。

私も同意できる部分が多い。勉強というと、学校で行われる科目をイメージするが、いわゆるそこで取り上げられるような学問に限る話ではない。

例えば、私は手品が好きであるが、何かオリジナルのトリックを作りたいと思ったときは似たようなトリックが過去に無いか調べることから始まる。それも手品の「勉強」といえる。自分の好きなこと追求しているのだから、楽しいことこの上ない。芸能に限らずスポーツでも同様だし、もっと言えばゲームにも当てはまる。ドラゴンクエストで効率よくレベルをあげるためのメソッドを学ぶことも「勉強」の一種だ。

ただ、「勉強の価値がわからない」という文脈で語られるときはそうした娯楽やエンターテイメントではなく、学校で実施される、もっと言えば、受験勉強の科目になっている内容の勉強を指すことが多いだろう。だが、なぜ、例えば、国語や英語や数学が当たり前のように学校の科目になっているのだろうか。それらの理由は一応はあるのだろうが、極めて恣意的に決められていると思えてならない。上述の手品やスポーツと何が違うのだろうか。

極端に言えば、音楽があるのなら、手品学があってもいいと思う(実際、実に人類の叡智が詰まっている)。現在、音楽大学があるが、別に手品の大学があってもいいし、手品大学があれば、手品も勉強するべき対象として認識されると思う。

近年では情報(コンピュータ)が、学校の科目になっていたり、受験科目になっているらしいが、プログラミングなんて好きな人にとっては完全に娯楽である。だが、興味の無い人にとっては大変苦痛だろうなということも容易に想像できる。

逆に考えてみよう。歴史の学習はいわゆる「勉強」とみなされるが、もし学校の科目に「歴史」が無くなったと考えたらどうなるだろう。きっと多くの人は学校の科目に歴史が無くとも、自分の国や人類がどのように出来たのか、気になって自ら歴史を紐解いていくだろう。誰に強制されるでもなく、「知りたい」という欲求に従い、知りたいことを学習するのだから、楽しいに違いない。そうしたとき、「歴史」を学ぶことは「勉強」のベールを剥がれ、娯楽となるだろう。

要するに「勉強の価値がわからない」のは「興味も無いのにやらされているから」であって、元々何らかの目的を達するために営まれる活動の一つが勉強なのだから、楽しいし、価値があるに決まっているのである。

その他面白かったところ

さて、本書では「そもそも勉強とはなんぞや」とか「学校で勉強する意味」等といった周辺の話題についても述べられているが、ここからは私が個人的に面白かった部分をいくつか取り上げる。

父は、とても変わった人だったらしい(今頃になってようやくそれがわかった。ずっとそれが普通だと信じていたからだ)。たとえば、勉強に関しては、「一番になるな」と言われていた。一度、クラスで二番になったときがあって、それを話したら、そう言われたのだ。

本書を読んで一番面白かったのはこの部分である。正直、著者より、この父親の方に興味があるくらいだ。「勉強しろとは言わない」のは、よく聞くが、「一番になるな」という教えははじめて聞いた。著者の父親は学校の競争的勉強に非常に懐疑的だったのだろうと思う。そうは言っても、物知りで教養のある人物だったらしいので、勉強の楽しさは分かっており、勉強の価値は競争には無い、ということを言いたかったのだと推察する。

大人は子供に対して正直に語る必要があるし、大人自身が、もう少し勉強というものを正しく理解した方が良い。しかし、ほとんどの大人は、大学までのどこかで勉強から落ちこぼれた人たちなので、子供にきちんと勉強の説明ができない。そういうときは、まず自分が勉強をすること、再び学び始めること、子供を説得するには、それくらいの努力(勉強)は必要だろう。 自分が嫌いだったものを、子供には好きになってほしい、というのも、虫が良すぎる。自分ができなかったことを子供には実現してもらいたい、と考えるような親の言うことを聞く子供はいない。たとえいたとしても、大した大人にならない子供である。親がなにかの夢を叶えるために一所懸命勉強している姿を見せることが、子供に対しての一番の教育になる。これだけは、ほとんどの人に当てはまる法則といって良いだろう。大事なことは、小学校や中学校の勉強が、道具の使い方(たとえば釘打ち)を練習している段階だ、したがって、楽しいものではない、という認識を持つこと。子供にも、この本音を教えることである。(太字は引用者)

子供に「何で勉強しなきゃいけないの?」と聞かれた時の答えの一つはここになるだろう。たしかに最低限、読み・書き(・そろばん)は出来なければ、勉強した先に手に入れられることを探すことも出来ない。したがって、そうした最低限の”道具”を手に入れられるまでは、ある程度強制的に学ばせなければいけないだろう。

しかし、その段階を越えたら、勉強の面白さを感じてもらうためにも、子供に「勉強しろ」などとは言ってはいけない。上述の例ではないが、ゲームは好きなのに「ゲームしなさい」とでも言われたらどんな気分になるだろうか。

研究やものづくり等、勉強を行った先にたどり着ける世界があり、そのための練習は最低限しなければいけないことは冷静に説明し、後は自分が勉強する姿を見せることくらいしか子供に勉強の価値ややりがいを理解してもらう方法は無いのではないか。親が勉強していないのに、子供が勉強をするはずもないだろう。逆に親が楽しそうに勉強していれば、子供も楽しそうなことをやっているなと興味を持つのではないかと思う。後は、やるもやらないも子供の人生であり、子供の勝手にしたらいいと思う。(何にせよ、子供を”自分が所有する自慢するための道具”としてしか見ていない親が多すぎる。そうした親が子供を自分の理想の姿に仕立て上げようとコントロールを試み、毒親となるのだろう。子供と親とは別人格であり、子供は社会からの預かりものくらいに考えておいた方が謙虚になってちょうどいいと思う)

そのあたりの教育に関わってくる考え方は、自分の経験に加え、他者からの影響としては、下記の牧野紀之先生の『哲学の授業』や齋藤孝先生の『読書力』等が大きいのだが、長くなってきたので、そのへんはまた別の機会にまとめてみようと思う。


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