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襖絵としての責務をまっとうすることを考える


襖は部屋を仕切ることを主な目的とした建具。


襖絵の責務(役割)を考えた時、ガラス張りの博物館にて丁重に扱われている場合と、吹きさらしだとしても何百年も前と同じ形で使われている場合、どちらが責務を「まっとうしている」と言えるのだろうか?

さらに言うなら、襖絵としてはどっちが幸せなのだろうか?


そんなことを考えさせられた吉野旅だった。


場所は吉野山にある吉水神社。

目を見張るような名品揃いの吉水神社の奥にある日本最古の書院建築の中で、対面した狩野永徳『桜の図』や狩野山雪『群鶴』は建具としての襖絵の役割を見事にまっとうしていたように思う。

日本最古の書院建築でもあるこの場所に通り抜ける吉野の風は気持ちよかった。入口をくぐってまずさきに対面するのが山雪の『群鶴』。その部屋は義経と静御前が別れる前のひと時を過ごした場所だった。奥にいくと見事な対面用の間があった。きっと太閤殿下が大きな花見会を催したとき、その障壁画は黄金に輝いていたに違いない。


そう「違いない」のだ。


というのも、世界遺産でもあるこの建築の状態はお世辞にもちゃんと管理しているとは言えない環境だった。

風が心地よいと感じるということは、その風は襖絵にもあたっている。

つまり。
襖絵たちは外気に晒されているのだ。


永徳の絵をこんな所に?!
えええーー!
Save the EITOKU!

と狩野派ガールを公言している私も叫びたくなるかと思いきや、書院に入ってその作品達が作られた当時と同じ形で鎮座しているのを見て鳥肌が立ったのだ。


作品が生きている。


呼吸が、鼓動が、その遥なる歴史を吸い込んだ畳や柱から源義経は楠木正成や後醍醐天皇の声が聞こえてきそうな感覚。


作品の保存状態は良いとは言えない。

このままだとあとどれくらいもつのだろうか。
そう考えるとちょっと怖くなる。



でもすごいのだ。
怒られるかもしれないけど、一瞬そんなことはどうでもいいくらい。
圧倒的なのだ。


これは博物館で展示されている作品たちからは体験できない感覚だ。


人が他にいないのをよいことに、ぺたんと座り込んで近くで狩野派の逸品を眺めてながら、冒頭の疑問について考えた。


もしあの場所もあのお寺も本物が当時と同じように使われていたなら…

どんな体験ができたのだろう?


保存と鑑賞の関係性とその正解は永遠に見つからないんだろうな。


私は生きている狩野永徳の作品に出会えた幸せを、吉野からの帰りの電車の中でかみしめるしかなかった。

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