見出し画像

先生はいつもそうだった

今日のラジオの事と絡めた話になります。
内容は、すべて昨日の出来事、「ワンの診察に行ってきた」話。

ラジオではその時の話を中心に、ここでは、一日を通して感じたことを、やはり「学び」の感想として書いていきます。

・・・ ・・・ ・・・

前日からこの日の運びを、主人と軽く打ち合わせてあって、当日の昨日は、”実行”になる。

主人が3ビキを散歩に連れ出している間に、ワンを連れて病院へ行く。散歩後のワン達がケージに入るまでの諸々の準備等は私がやる事になっていて、病院へ行く子の準備などをしながらいつも通りのそっちも片付けてきた…。

運転中、ふと思う。

「こうして色々の準備を一つ一つ考えながら、確認しながら済ませて。いつもの、何の意識もせずにやっている事さえ”確認”して現実に引き出してこないと、”分からない”って―――。どれだけ普段は現実にいないんだ…」


似たような感想は今までにも何度かあったことは憶えているけど、それがやけに、”この現実に触れていない事”を明かしてくれている様に思った。

無意識で行っていること、出来ていることというのは、現実に居るようで、頭の中の再生シーンとただ一致しているだけ、という様に感じた。だからこの現実で何かが起こった時、自分の中に居た意識・自分が、剥き出しの状態で出てきて対応するので、その鮮明さ、激しさをしっかり感じるのだろうと。

その現実にどれ位かの時間直接に触れて、後にまた意識は引き下がる(隠れる?)かのように、頭の中に治まっていく。

いつもあまり触れる事のない”現実”という世界に顔を出し、そこで直に観たもの・情報を持ち帰る。それが、既存の情報とすぐには馴染まず、差が大きいため、時間差で処理に何らかの困難を心理的に感じる。程度は様々だろうけど。

現実に触れるってこういう事か…、人は大して現実を生きていないというのは、こういう事だよな…?とか、そんな事を目の前の簡単なことの対処を前にして思っていた。

”脳ってヘッポコ”って感じる時って、アナログで動かしている時だよな…。

普段の記憶の再生時は、何でもできるように感じたりも出来るけど、現実に対処するアナログは、”ヘッポコ”としか言いようがない(*'▽')

・・・

ヘッポコと書いているけども、その場面を”新規”のものとして対応する時はそういう事になるのが当然で、貶している訳じゃない。逆に言うと、現実を記憶の再生で回していないから、それで良いのだと考えている。

何かかっこ悪かったり、どちらかと言えばスムーズでない場合は、もしかしたらちゃんと初めての現実に、意識がしっかり対応しているという事なんじゃないかと思う。

(その現実自体の難易度は関係ない、現実自体が初めてのシチュエーションかどうかもあまり関係ないように思う。あくまでも自分の”意識”が、いつも起こっている様々な現実と”直接触れる”という意味のこと。それだけ人はこの”現実”をスルーしているという事と感じた。だからいつもはムリなんだ)

・・・ ・・・ ・・・

(動物病院の)先生との話は、対面している時は、ただとにかく”理解しよう”というそれに尽き、そしてどこで「それはこういう事か(意味か)」という括れる所を探すのに苦労した。

先生の頭の中には、とても詳細な”あーなってこーなって”が描かれていると、話している様子から、出てくるその切れ目のない文言からそう感じた。

帰宅してから断片的に思い出される先生との会話。その中で気づいた事の一つは、

(例えば)良い悪いという様な判断、どちらかに幾らかでも確実に分かる”偏り”、というものがなければ、人はそれを自分の中で解釈から判断、その先の選択をしていく事が、とても難しいと感じた。

それを、今回はこの先生から学んだ。


本当に、何もはっきりとは言わない先生で、だから流石に今回は話を聞きながら途中で、「(ここは)もう無理かな…」と思ってしまった訳で。検査結果を待つ間、殆どずっと先生の話を聞いている中で、漸く”括れる部分”が幾つか見えてくるのと、こちらから「それで結局病名は…ですか?」と問いに対してやっと答えてもらえるその流れと…。

先生はすべて、”その様子”を話していると、帰宅して思い出すことから感じられた。それは、基準の数値からの話はあるにせよ、先生の話は殆どが、何も偏っていない事に気づく、ただ状態を話されているだけだから。

それが”分からない”というこちらの解釈になっていること、「何かの断定的な”言葉”を使ってくれれば分かるのに…」というこの思いは、どこをどう解釈し、それを判断(選択)すればいいのかがまったく不明な状態が続くことによるものと思った。


何かの治療を勧められることもない、何が今必要で、どうしなければならないのか、が一つも示されない。そのなかで素人が決めなければならない状況だという事が分かった。

人が何かを「決める」事ができるのは。

必ず何かしらの、幾らかでも、傾き・偏りがそこにある事が分かるからと痛感。どちらの向きにも、何も感じられなければ、その方向は全く決まらない、決めづらいという事だった。

だからもし、自分が何かを決めるという選択が、考えることなしに即座に出来ているならば、それは必ずその”決めたこと”に対して、自分の中で判定(判断)できる条件が暗に”提示されている”という事になる。

そしてその、自分の中にある”条件”とは、正しいかどうかの基準があるのではなく、自分が芯に持っているその事から響いている”向き”だということ。


判断の基準となるものが提示されない時、自分の中にある、”大切にしているもの(考え・在り方など)”まで下りなければ、私は見つけられなかった。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!