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目線が切り替わる時

今月もまた、本当におもしろい月で。

自動車のダイナモの交換が必要になったり、主人の乗り換えとなったトラックが間もなく”バックモニター”の故障で修理のために再び乗り換えとなったり。

普段は気にすることなく運んでいたそれらが、次々とポンポンと変化が起きる時。

私は、途中から目線が切り替わる(昨日のFacebookで軽く触れた)

始めの一つ…せいぜい二つ位までは、そのコトに普通に対処していれば良いのだけども、印象的に「次から次へと」ということを感じた時、”いつもと違う”が自分の中に発動、それを捉える意識が変わる。

これは、それらを受容れるスタンスを変える、という意味だけども。


私の過去の経験では、父絡みのことが進み始めた時。恐らくは、”進み始めた”その前から何かが始まっていて、その「現象」として”進み始めた”事で気づき出す。

そういう時の忙しさは、本当にあれよあれよと事柄は進んで行き、こちらはそれをこなしていくのがせいぜいだったりして、とても速いスピードの中を駆け抜け、落ち着き静かになった時に何か、大分ワープでもしたかのような、それ位”現実が忙しかった”と感じることがあった。

主人がそこまで何かを感じているかどうかは分からないけれど、私から見て、普段の主人よりは「車関係」のことでちょくちょく忙しそうだな…と感じていた。ましてや、マイペースを保つのが上手い(?)主人にしては、イレギュラーな動きが多いと観えていた。


音声noteで言い切れずに終わってしまった事だけども、やはり、「何かその事を成す時」というのは、自分の意思を使って行う時と、コトに自然に運ばれて行われる時とがあって。

その”自然に…”の時に、私たちはそれが「自分の予定通りじゃない!」事などから、とても反発・拒否したり、何が何でも自分の思う方へ仕向けようと戻してみたりと色々してしまう事がきっとあって。

憶えていないけど、私はそんな事も散々やって来たように思うのだけども、ここ何年かは、そういう大きな区間(空間)で観た時に、「なんか違う」という事を感じるようになった事により、「そうなっているならその様になっていよう」という、流れの中に入ってしまうという事を少し憶えた。


自分の意思を使ってしっかりグイグイ行く時と、流れに乗ってスイスイ行く時とあって。いや、この現実世界での動作(行動)は、スイスイなんて軽く泳げるものばかりじゃなく、どちらかと言えば”メンドクサイ”と感じるようなものが多いかも知れない…、だって思っていること以外の事に忙しくなるのだから。

そしてこの”切替え”が、本当に正しいかどうかなど、正確に確かめることなどは出来なくて、だけど間違いなく言えるのは、この切替えの仕方をしている時、きちんと「”いつもの自分の選択”以外の事をしている”状態”がある」ということ。

慣れ親しんだ考え方、選択をし続ける私たちの行動は、こういう言わば”強制的”な事でもなければいつも通りを当たり前に選択してしまうもの。

それが、自分の抵抗をあまり受けずに、受けるも何もかなりの強制力でそうせざるを得ない状況になることで、やらされてしまう、ということがある。


そしてこのやらされてしまう事というものも、「正しいかどうか」なんて判明しないわけだけども、これは”いつもの自分の選択以外”という所で行っているという事は確かな事であって、それは、正しいという表現は出来なくても、”必要”という表現は可能な様に思う。

私たちが、自分の思う範囲で考え・選択・行動しているというのは、マンネリ化状態が多く、選択を変えているつもりでもそれすら”パターンの範囲”と考えてもいい。

であるならば、自分にとってはまったくの”想定外”の時に、初めて”自分の外”に出られる訳で、意図せずという事との出会いがソレ、という事に絞れてくる。


こういう流れを何度か観ていると、何かを「やろう」とする事とは別に、その様な時には思い切って”自分”から離れてしまう”選択”というものが、意外にもその後に繋がるのだろうと思う。

それはやはり、やってみない事には自分がその感覚を掴めないものだから。感覚を掴んで、知識と合わさって、初めて「こういう事なんだ」と知る。

それが、自分自身でやってみた事として積み重なっていく。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!