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感度の鈍さもある(*^^*)

”後頭部をサーッと流れたもの”自体は、別に簡単にメモしていた。

―――という事は、意識しないと脳は勝手に”視た”映像からどんどん情報だけ繋げていく訳で、体裁よくまとまっているものは、私達の制御によってカタチになっているとも言える。

”言える”としたもののまだ、実感の薄いイメージ段階。この”制御”と書いた部分はまだ”分解可能”だから。その一部はパターン化された記憶のリピートであって、きっと殆どがこのケースが多いと想像し、その結果での「言える」という程度に弱まった―――。


直に”観えていない”という事を書いている。

まだ「こういう事(になる)かな?」という感じの書き方。

私はいつも”自分のアタマのこと”しか書けないけども、他者のアタマはどうだろうか。昔から私はモノコトを「映像(画)で取る」という風に説明している通り、理解解釈などは”映像”から始まる事は多い(脳で映像化される)。

因みに、昔主人と会話している時に、「イメージすることが難しい」と言っていたので、アタマの使い方は勿論それぞれ異なるものと思っている。(主人の現在が今もそうかどうかは不明)

言葉を使った「会話」をしていても、脳内ではそれに伴うモノを動かしているし、そちらに集中し過ぎてしまうと”会話”が見えなくなってしまうので、どちらも”引っ掛け方”が浅いかもしれない。


”メモ”に戻り読み返すと、結局は「感覚」がよく動いているように思った。確かに特に最近は、自分の”動作”に”短いフォーカス”がある事は分かっていて、自分のその時取っている動きを”みている”。

・「膝が曲がっていないな…(低い姿勢の動作に、腰を曲げてこなしている)」

・「今、方向変えたな(着地寸前に入り込むワンの足を踏みそうでほんの少し足の向きを変えている)」

などが意識に上がる為、必要なことであればその後に策をとれる・・・。

膝を曲げていないことは、必ず昔を思い出すのがバスケの練習。疲れてくると膝を深く曲げることが出来ずに、腰を曲げて”低くなったような”姿勢をすることをよく見てきたから。

(腰を曲げる方がキツかったので)私は膝は曲げられたのだけども、現在は疲れている訳でもなく腰曲げが多いというのは、膝周りの筋力が落ちたという風に捉えている。

気づくたびに、腰でなく膝を曲げて処理し(基本、ワン達の世話中のことなので)、またクセでその様な姿勢をとる習慣になっている事も考えられたので、その度に「使うのは膝」と、やんわりと動作を矯正している。


今日は、この流れのまま”思いついたまま”を続けていきます(*^^*)

「鈍感(力)」
って、もう大分前に書籍があったと思うのだけども。

内容は私は知らないので、私自身が自分の経験から「鈍感なんだろうなぁ」と感じることを書いて行きます。

…とはいうものの、その具体的な”会話自体”を憶えていないので、それを書くことはできないのだけども、年配のご近所さんと会話をした時、後になって「あれ?もしかしたら嫌味だったのかな?」と思ったりしたことの話。


ワン散歩中にたまに顔を会わしたその方のそれが、本当に”嫌味”かどうかは分からない。現に私自身が会話中にそう捉えることは全くなく普通に会話し、それを思い出している最中に、脳内の別の記憶から引き出される”情報”によって、「ソレハ イヤミデスヨ」と思い返してのことだから。

世間的にはそういう会話(そういう言われ方)を、「嫌味言われた」と言っている事を情報的には知っているから。

ただだけど、その情報を私が採用する必要はなくて、私が感じたのは何とも思わない”その場でのただの会話”であって、後から”付け足した情報”=引っ張り出された情報によって、私の反応を変える必要がなかった。


「その時私がどう感じたか」、であって「普通は…」という事から見たら鈍感であったとしてもあまりそういう所は気にならず、ただ、自分が直に何かを感じた時というのは、自分の中の気持ちの精査は行うものの、無視はしないという姿勢はある。

私自身、アフォという所にはあまり引っ掛かることはなく(だってそうだから)、ただ「人」という所に関しては非常に敏感なものを持っていると感じている。

私の中で昔から関心の高い「人」という存在。

関心のあることに、人は大抵詳しくなっていく。それは自然とそこを見続けていくという探究がなされて行くから。


そしてこの事が、私にとって全ての考え方のベースになっていて、それは当然ながら、この世のことが「人が行っていることだから」、と考える事を基本としている。

これは、分野などは全く関係のない事で、人が絡んでいるものは、”人”の関するすべての情報を無視することが出来ないのは明らかである事。心を通わせない世界であれば、全く無視できるものの、それは殆どない。

それを行うのも受け取るのも人。

この世では、機械的な人よりも感情を動かす人の方が多いと、この先もそうであると思っている。


8/31メモ

あーでもない、こーでもない…と考えている時がつまり思考している時であって、即座に決めてしまえるという事は、思考されていないパターン選択が多い(かもね)。

アナログになれる時、自分の頭を使っていると言えるのかも。

9/2メモ

”動作”に出ている本気。
後で考えたら恥ずかしい位の狂気。

その気の中に、言葉にされない様々な本人が現わされているのだと思う。


9/2メモ

やってしまった過去と、それを観ている(仮に)今の自分と。

別モノだから。

だから認められない、特に”肯定できない事”も、その時何よりも感情が勝る理由があったんだよねきっと。

そんな自分を許してしまおう…。


「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!