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トイレのひらめき

そうそう、そうなんです。

あの時、「こう書こう」と思ったものなんて、この時になれば全く違うものと結ばれる。そして”過去との比較”によって、「あれ…、違うのになっちゃった」となる訳だけども。

脳的には当たり前で、記憶再生によって書く以外であれば、繫がれ方は”最新”で良いのでふ(笑)

脳が折角その様に、新しきを見せてくれているのに、私たちはそこに違和感も感じる。そりゃそうだ。今まで記憶という「過去の再生を殆ど回しながら生きてきた」のだから。

そうある事が”普通”と思って生きてきたのだから。


これは、ここ最近…どのくらいだろう?ひと月前後の間に初めはそういう事も分からないままに、そして少しずつその頻度が増し、また更に傾向は強まり。

そうすると今度はそれが、「そういうもの」という習慣へ入って行く。

必要があって過去へ戻るのならそれに意味はあるのだけど、大体の場合が必要でなく、拘りでもなく、惰性であるものだから。その時、再び両方を見られる所にある為、選んで実行ができる事になる。←か→かどちらか。

この「向き」を感じているのも人のアタマ。

イメージするなら、本来は無秩序なバラバラに向く矢印たちを(無意識)、キレイに揃えた秩序(自覚・意識)。これはキレイな一本線の様に辿る事ができる。

その”道のり”という経過の感覚、連なりにしなければそれはいつもソレ。

冒頭は、湧いたままに連ねてみました(*^^*)


「あ、、、そうか。そういう事か」

『”はっきり言う”ということができる』という事の陰に、”自己責任”というものが観えてきた。そしてそれは、他責の割合が縮小し>、自責、言い換えて”自分で引き受ける・引き取る”という事が拡大する<、ことによるものと観えた。

「言う」という簡単なようで、しかし色々と様々な場面で躊躇するこの行いは、単に言うという動作に留まらず、その”返り”を受容することの準備が出来きているほどに強さが増す、と思った。


その中には、これが一番大切な様に思うのだけども、内容の正・誤ということより、”誤り”の後にある「訂正の力」という所。受け止めるだけでなく、自らに認めるならば訂正すら即座に可能とするという柔軟性。

そして当人のデータ書き換え。ここに表の発現を輝かせる要素がある様に思った。

表は必ず裏側と繋がっている。

怪しい、恐怖という意味でなく、表れの元となる裏側。だからこの間がスムーズだと、見え方もクリアになるのだろう潔さ。”言おう”としなくても裏側・内面がその様に整えば自ずと発現(発言)も増える。

もちろん、この成立以外の発言は、多く存在している(そちらの方が多い)。

(9/11メモより)

・・・

これが昨日記事の【「先」の止め方が緩ければ、現実の受け止めも流れやすくなる】とした関連メモになるのだけども。

昨日の記事を書いている時に想像されていた”事象”と、このトイレでのピカン!からメモした、この元に想像された事象とは異なるから関連とした。脳はいつもそんなことばかり。

何かを想像している時、このアタマの背後、後頭部をナニカがサーッと音を立てずに確実に通って行く。それを視るからそこでまた”分かれていく”事が可能で、でもそこで分かれてしまっては、本筋はそこまでで止まってしまう訳で…。

そんな事をしょっちゅうくり返しているのが、この脳だと思っている。ほら今また、こうして”背後”の話にそれたままで走っている。「関連」の話などそっちのけ。頭の中ではたくさんの色々がアチコチの方向に動き出すのに、出力段階では”ひとつ”しか出来ない為、一つに絞れば何かを脇に避け(または捨て)、あちこちを活かせば、筋は一つでなくなるバラバラとなる。

バラバラ書いたので、戻します。

自分の内側でしっかりと”引き受ける”という姿勢が定まっていると、発信することに自覚がしっかりとあるはずで、自分の行いがきちんと把握できているという、自分に対して責任取れる状態がある、という風にこの時はみていた。

これは、まだ起きていない”返り”の部分を想定するという、未到来を視ている訳であって、そこは強く意識もせずに行われている事もあるかもしれないけども、視野としては「そこまで一旦引き伸ばして視た」という想像ができた。

そこがしっかりと”みえる”ほどに、この場で行う発現(発言)は、”はっきり”とする事ができる…、その様に感じていた。

・・・

責任という重い言葉を使っているけども、違う角度から補足すると、自分の世界を生きていく上で、自分がその”中心”であって当然で、その責任を引き受けられるのはこの”自分”しかいないので、それはどんどん”当たり前”になる。

信じ難いけども私達の意識は、幼いクセのまま保持し、それに気づかずにオトナをしている事。そこを少しずつ塗り替えていくので、自分の割合が「>」から「<」へと変化していく。

自分の世界の主人公を当然の”自分”に、取り戻すだけ。

人が、当たり前の状態になることが、他者から見てしっかりして見える。そういう時本当に「大人」という存在になれているのかもしれない。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!