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諦めはテクニックとして使う

昨日は、ワンコ2ピキのトリミングデーで。

病気ワンコのトリミングを、今後は(取りあえず)外していくための調整をしていた。既に年間で予約しているため。

先週、糖尿病の子のフードのことので、現状から先生に確認のTELを入れようかと思っていた所、昨日直接に話すことができてラッキーだった。

「下痢などもなく、現に異常がないようであれば(可)」

という事だったので、喜んであるフードの増量を決めた。

この事が本当に嬉しくて、「総合的にこれが良さそうだからこれにする」と当初に決めていた、私の与えたかったフードの給与量はどんどん減った。

食いしん坊ワンコでも”飽きる”というのか、他の子たちの今まで食べていたフードを「おいしそう」とする仕草をし出していて少し驚きもあった。食いしん坊でも、”これよりあれがいい”という選り好みがあるのかと(笑)

この1週間・10日…、本当に何か忙しく。
まぁそりゃそうだ、今年の”超繁忙月”の真っ只中。

月曜は、身体を解しにDRT整体の予約が入れてある。


では、昨日の続き、少し具体的に書いていきます。

「思った所から」書いて行く、という予定でいたのだけど、「いや、ちょ待てよ?その起点からの方が良いのかな…」と感じたので、そこから入って行きます。

「やる」

ここからスタートです。
根底の起点は、こんな小さな簡単な、シンプルなものと思う。

だけどそこからいざ進行していくと、その道のりには体調不良や、様々に現れる予期されていなかった”状態”に遭遇、そこで”出端を挫かれる”ことになったりするわけです。

本当に出来ないものは出来ないという状態もある中で、本当に”ほんの少しだけ”という動きによって勝手に開けられる扉がある事を、多分そんな事を繰り返してきた人たちは「知っている」のだと思う。だから、頭にある色んな「こと」は置いといて、何のためという事も一旦は忘れ(放り投げ)、”ただ少し動く”という動作で駒を進める。

特に何も考えることなく、「動く」という事でなぜか分からないモヤった状態が打破されて視界が開く―――いつも通りの状態へ自分が戻されて、元々の「やる」の土俵に上がれてしまう。(昨日書いた、”運動による影響”という見方はそれとして)

まずそんな事が言えた。


そして「本当にキツイ」と感じているのは、その状態での”事実”であって、それは、他者のある状態と比較するものでは絶対になく、”やる”を基本に持ちながら、ムリなら無理と考えた上で「その時は放棄する」ことがあってそれで良いのだ、ということ。目一杯際まで行かせる状態。

スポーツ的な”その状態からもう一歩出る”という事は必要ない。それが昨日触れている部分になってくるのだけど。

(一般的意味での)”諦める”という事は、手放してしまう事。その事を少なくとも手放してしまうのだから「握りしめているものはない」という緩めた状態=解放させた状態になる。それが肝なんだと感じた。

「やる」という事自体の放棄をした訳じゃない、「タイミングの取り直し・仕切り直し」というそのニュアンスで考えれば、以前からソコという所に目を向けている状態は、幾らかの緊張を重ね続けているのだと思う。それにより身体が硬くなり動きにくい、だから余計に身体は重く、動くこと自体がどんどんきつくなる(そう感じていく)。


そんな状態を自分の意思・意識側で一旦は「や~めた」という姿勢を示してやると、その状態から”解放”される騙される”自分”もいて安堵する。緩まれば楽なもので、キツイ・重い・しんどいと思っている状態がなくなる事によって普通に「できる」という意思を取り戻すことができてしまう”隙”。

それだけ自分自身の焦点は、自分が思っているよりかなり明確に無意識でフォーカスしている状態があるという事。そのお蔭で、結構”閉まって”しまうのだと思う。

再び扉を開けるために。しまっている状態の仕切り直しをする状態が「諦め」。そんな風に流れを感じていた。

・・・

で、諦めるまでの所は、自分のそんな状態があるのだから、本当に苦しいと感じるわけだし、たとえ理屈で「こういう状態があるだけ」という正しさがあったとしても、この考えで言えば関係ない。その閉まった状態においては「真実」でしかないもの。

ただ本当に、自分の中で「やる」という事がウソでないなら、必ずどこかでそのタイミングを見計らう事はするはずで、そうであれば仕切り直す具体例は何でも良いわけで、またそうでないならば、「自分にはそれが必要ないこと」と、完全に割り切っていい話。

その”割り切り”の判断が正しいかどうかも、この時点ではあまり関係がなく、それが自分という存在にとって「必要なこと」であれば、必ず人生の中で目の前に顔を変えて登場する。その事にも自分で気づくはず。


だから、他者が決めることは何もない。
外の”先生”はその時まったく関係ない。

だけど、その先生たちが言っている事が「そうだったんだな、そういう事だったんだ」という事が肚から分かるのは、その体験を済ませた後からのこと。

この流れ全部の事は、別の大きな話では、「他者でなく、自分のことを”自分が”決めていくこと」という学びの話。決めていく事はとても迷うから人の、世間の、何かを鵜呑みにしていく。それだけ自分で決めていく事は葛藤や困難もあること。その部分から突き抜けていくことで、今までの自分というカタチから少しはみ出た状態になるそのくり返し。

そういう事が言えるのだと思う。


諦めまでの”思考”という実感は、その枠内において完全なる「真実」だと思った。そして一旦は諦めるという形をとって投げだす事によってカタチは崩れ(弱まり)、スーッと入り込める”自分の隙”が現れる。その事によって「なんだ、できるぞ」という状態が再び視えてくるのだけど。

これを”一連”という連続することとして捉えれば、振り返る初めの枠内は「ウソ」となる。だってそれは、そこを「超えてきたこの自分自身」が見つめる事ができているのだから。

”枠内”という既存の事実。それは枠内にのみ通用することであって、その外へ行ってみた自分にはすでにそれが”本当の事だったのかどうか”という事も分からない程の感覚になる。

だって本当に、その時は怠くて仕方なかった。メンドクサかった。

だけど、ひょいと抜けてきた自分は今ここに居る―――。

どちらもこの自分自身。

(トータル、進んで来たことを”振り返る”ことで、別の空間の立ち上がりがあったという表現が出来る。脳の働きが今までの部分とは異なる状態になっている。それによって”立ち昇る”ものを”視る”と思っている)

【居る場所、意識の置いてある空間による違いということや、”諦めること自体が悪じゃない”こと、その”時々”というコマで見ることと連続という一連で見ることとの混合、それによる”不安定な印象”その解釈…。】

幾つか思いつく見方(イメージ)を連ねました。

モノの見方のヒントが結構ある様に思います。

(この週末で、小さなモノコトのかなり多数が片付いていった。ミラクルと思った(笑)本当に有り難いパンパン!)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!