自分であれ
楽譜を眺めていたら
それは連なり波になって流れていった。
音の波で人は喜び
言の波に人は迷う
その”状態”に合ったものしか出てこない。
機能としての”処理”は、見方によってはやはりAIと変わらない。
・・・。
ちょっとはっきりは分からないけれど、大した刺激がないと自覚上は思っていても、外側からは何某かの”影響”がある中で、またどういう継続性があるかも分からないけども、脳内に残る残存する”潮の満ち引き”のような、静かな向きというか流れ(の方向)があるんじゃないか。
自分は”外の何ものにも影響されない”と思う意思で決める所までは自分でできる事だけども、その思いの通りに脳内で処理が成されることが約束される訳ではない。
それはやって行けば分かること。
無意識にも”影響される”という自然な入力はある程度あるわけだけども、その浸透の仕方が、”自分の意思”によって左右される所はある…、既にここまでで矢印は左右に振られ向きをチラホラ変えている。
この感覚に慣れるのに時間は必要になって、またこれがいつも必要かと言えばこれもまた場面によっては「チラホラ変えてないでただ行け」という一投のズバッとだけで良かったりする訳で。
どの考え方・やり方が正解というより、世界という無数のパターンによって、自分の選択(実行)が使い分けられて合致する事、という事によって世で言う”正解”にきっと近づく。
様々なノウハウ・スキルを持っている人は世の中に沢山いるのだと思う。そしてその中でも、世の状態その時の場面によって選択を様々に使い分ける事ができるという、センスの良さ。その場数が多いということ。
ここで書いた”センスの良さ”は、端から才能があるかのようなものでなく、そのパターンが脳内で散々繰り返された事による「鍛錬」によるものを想定して書いた。
でないと、センスがなければ「そんなものはムリ」となってしまい、始めから一歩を踏み出さずに終わる。成果を出している人たちは、まずそもそも自分の土俵から外れていない。それは、闘う場所・居るべき場所を分かっているから。
身に付けるテクニックだけでなく、必ず”自分というものの把握”がなされていて、無意識にでも”その場”を嗅ぎ分ける。「その場」を作ってしまうという事もあるかもしれない。
そんな事を一切考えずにただ”やってしまっている”という人が、本当にセンスのある人なんだろう。
動物的なカンと、知的な情報の結び付けが非常にスムーズな働きを持つ、脳の働きもスマートなんだろうと勝手に想像しながら書いた(*^^*)
・・・ ・・・ ・・・
”自分への肯定”が濃くなるというのは、主を張ることが多く表れてくるのは自然な事。自分の世界で主張できなければ、どこで行うのか。また誰が自分の世界に存在するというのか。
(いやいや…)
その”自分”の中でさえも、主張してくる自分が色々あって、逆に何の主張もされない事でどの方向にも向かない凪のような状態だってある。そう考えると一時的にでもある一定の方向に自分を露わにするという事ができるのはとても幸せなんじゃないか、と思ったりした。
今まで一定だった「向き」が壊れるということは、既存の破壊のようで良いのだけども、文字で表現することの中においては”向かないもの”なんだろう。目に見えずとも自動的に向いているその向きを、その後間もなく相殺してしまうかのように消されていく。
文字はこうして残っているのに。
(書いている時に)大して感情が”入っていない時”というのは、喜怒哀楽の文言を使っても、通常の意味で捉えられる様な強さを持ってない。
言葉その意味を強調するのは、それに対する人の”心”に刻まれているものだからね。
少し解れていく時の流れ
何かとくっついていた情報処理がその学習を終えた
そんな時
今までは何だったのかと思うほどムリなく
自然の行いとして剥がれ落ちる
そしてまた
新たな連なりが見え出してくる
全て日中(前日)に、「何か定まらないまま」の流れのままに書き上げていた。
そして夜、短時間で全て回収できる様なズバッとが届き、シンプルで、でも大きな気づきを得て自分の中が納得。その後に仕上げようとnoteへ来るとかなり結べた。
一日を通して非常にシンクロの多い日で、書いたら忘れているのが基本なので、読み直した時それは驚きになる。
久々に開いたゆうきこよみで29日を見ると。
「主張」とありました。
「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!