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言葉の中身は人の前提

外からの刺激

その”音”に対応する部分が、自分の内側から引き出される事により”反応”が起きる。

私は○○と思う・思わない、または何も”反応なし”も無の反応。言葉の意味で解釈する→応答するという連続のコミュニケーション、外の音に”反応”することで内側が外と結ばれる。

外の刺激なく、自ら内側を外へと繋いでいくのはかなり難しいことだと思う。

人は結局、”外から”何某かの音に反応している。自覚の範囲”外”は大アリ、世の中の音はそれが殆ど。

言葉を憶えてそれを使うことが習慣にされているから、その言葉の意味から内容を理解する、当然。

”初めに言葉”と表現できる場所は、この見える世界の話で、それ以前の場所でその大元は存在している。何かの音(振動)に対し自分の中に応じる動きがあって、それに対して思ったり考えたりと言葉にできる状態になる。

”耳で把握”できなくても、産毛なども十分に振動は拾うものね。受信器であるこの身体の感覚を拾えないのは、鈍さも大切だから。全ての振動を拾えてしまえたらそれは神経が休まらないのは想像ができる。

私たちが拾っているものは、”人”に関係しているものが殆どよね。だけど全体の音というのは、もっと広く大きな範囲でいつもあるわけで…。

拾えるもの(自覚の範囲に入ったもの)はいつもほんの一部だけだという事。それがそこに意識が向いた状態だと、「まるで全て」のように捉えてしまっているということ。

”意識的に自然の中へ行くとよい”というのは、そういう事の対比、位置づけを確認するのに分かりやすいと思う。

・・・ ・・・ ・・・

何かに向けた意識が尾を引く―――
というのは、まだ固定した記憶にする前の、フォーカスの余韻みたいな感じで存在するかな(?)

何かに一度意識を向けた事によって、それ関連がその後に連なって出てくると言うのは、振動その”揺れ”に対応している…と言えるかな(?)

まぁ、独り言はこのくらいにして(笑)

「今回はこれに触れよう」と思ったのは、”やろうとする事”というそのものに関して。

これは昨日noteの内容の一部がほんわりと脳を通り、その事から”視えた”もの。そういう違い、ここに”区別”があるかな…と感じた。


「やろうとする」という状態は端的に言って、それは”ここ”というこの自分から離れている状態で、”だからそこへ行こうとする”ことのできる位置関係。いつもの様に良し悪しじゃない「状態」の話。

この言葉は”意思”の状態で、動作に比重が移っていない。だからやろうとする事ができる。意思とは”頭”のことだよね。

そして比重が変わり、動作に移っている、その意思が乗っていき、それが”重なっている”状態で一致となり、その一致した状態ではもう振り返ることでしかそれまでの”意思”を見つける事はできない。カタチが変化したと表現ができるかね。


そして更に、このすでにその場では意思すら見つける事ができない状態、(仮に)表現として「行動」となった時は、今までとは異なるものをそこから見つける事ができるように思う。

”当然”、”こうなって当たり前”。

意思という思いの状態から行動という標準にできているその状態に対して、この自分は今までのように「”やろう”とする」ことはまずない、出来ない状態になる。「”なって”いる」ものには、”やろう”とする状態が生まれようがない。

そしてこの「違い」が確実にある状態で。ここには確かに状態の違いが存在している状態で、何かに対して「当然」という表現をすると、例えば傲慢とか自惚れとか、後は何だ?要はそっち系の意味で捉えられる事の多い、その表現をする状態があって。

(私が何か言われたわけではないし、よくある事として書いている。)何かができる、そうなって当然という状態になることを、まだ距離のあるものとして見れる距離にある存在と、すでにそうある存在とでは、生まれているモノが異なるという話。


いつか、「偶然は必然になる」「そうひっくり返る」という様なことを書いたのだけど、それは「そうあるコト(モノ)」と当人にとっては表現できる状態を持っている、ということだと思う。それはそうでない他者からの謙虚さがないとか遠慮を知らないとかいうその次元にない状態だから仕方ない…、交わらない話。

言葉を使ってものを書く私は、書いている私の考えと読み取る側のそれとでは、まったく違う路線になることの体験はきちんと済ませ、そこから現在のスタイルになっているし、人の持つ前提や状態によって、そこに大きな差が生まれるものは仕方ないという考えになっている。

何度も、”違うよ…”と思った過去。だけどそれは自分と他者とでは全くあり方も何も違うという見方に変わっていった。同じなはずがなかったと知った。

初めのころは、”同じ”が伝わらないもどかしさも散々抱え、私は「伝わるものと思っていた」ことが分かる。

そしてそれは。

人の考えを、”この考え”に寄せようとしている事なんだと学んだ。その上で、そうではないと漸く分かった。

人の目線は、自身の目線でどうしても見えてしまう。自分と他者を連ねてしまっているし、自分と他者は時にしっかりと切ってもいる。自他は自分によってくっつけたり離したりできる存在…

明日、関連を書いていきます。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!