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状態をみて学ぶ

問題という何か、トラブルがある状態は、それの解消や対処など、具体的処置は大切と思うのだけど、別の話では…。

それによって調査することへ進展できるということ。

ある記事を読んで、日本と海外のその在り方考え方、捉え方の大きな「差」が(あった事により)、その問題を抱える日本は研究への展開ができ、まったく物事の捉え方の違う海外では、それに関しては研究に遅れをとった。

大きな、世界の捉え方別にあって、それは大きいだけに正しそうな解釈と考えられがちだけども、その状態の変化、例えば何かのきっかけによって、日本のその状態と類似した環境になった時には、そこに目をやる事になる。

それまでは大きな存在は、必要性もその状況もなく、全く異なる解釈・前提を持っていたのだから、何がどの状況でひっくり返るかなんて誰も分からない。―――トラブルからの展開を。


先月のメモだけども、表で見える所の「解釈」は、状況がまったく違えば、同じ土俵で話すことはできない。悲観的な意味でなく、よく書く”前提”が異なるものという意味で。

表で見えている共通の意味の、ある「言葉」を共有して話しながら、その事を考えるベース部分が全く違うことになる、よくある話。

それが他国の、色々な分野で”最前線”を行くと思われる国の考え方、その解釈となれば、「それが正しいのかもしれない…」という風に考えてしまっても流れとしては自然なのかもしれない、人の考える範囲では。


その中で、止まることなく進んでいた研究があったから、結果的にそれに関しては「日本が進んでいる」と見えるわけで、進んでいる・遅れているではなく、解釈の異なるそれぞれの場所から、ある同じ地点へ行こうとした時に、そこまでの”距離”が出てしまったという話。

大きな外側の、何かによって引き起こされる環境の変化によって、小さな人間の世界は簡単に”場所”が変わることになる。

本当は、この小さな空間では何も変わってなんかいないのだけど、環境という外の状況、最強の外の世界によって、人は転がされてしまう。外の世界から何の影響も受けていない、という事は言い切ることができない。現に人自体が変わらなくても、同様の環境に置かれれば、今まで発現しなかったものが自分の中から現われ、「そういう事」というものがそこで分かることがある。


外の世界というその”環境”は、普段は人によって強く意識されることなどないのだけど、外が変わった事によって自分というこの”中”が変わる「考え方」が変わってしまうというのは、「その環境下なら同じ考えになる(かもしれない)」というその経緯を経験するから。

憶えていない無意識に連なり続ける情報。”経緯”のいちいちを私たちは憶えていないけど、刻まれているから何かの解釈、その考え方へ結ばれている。

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それは「自己管理の問題」という様な解釈をされていたような話が、だんだんと奥の内側の身体(脳)の仕組みが見えてきている事で、「それは人が表でどーこーできる部分の話じゃないね」という事が明らかになったりする。それまでは、”管理”というコントロール可能なものとみなされその考えが強ければ、”そういうもの”という世界の中に生きる。

見えない所・未解明のことは、分からなくて当然なんだけど、それが中々その様に考えること自体が難しいから世の中は複雑よね。そしてそういう事が分かるようになると今度は逆に、それを盾にする様な動きへ一気に傾いたりして、いつも大きくザパーンザパーンと動く世界。

”丁度”という所では止まれないようになってるんだろうね。止まれる事は一時の特殊なことでよくて、通常はこうしてザパーンとしている「状態が揺れている」のが”良い”のだろうね…知らんけど(笑)

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人が(自覚という)意識上で、自己管理できることは、全体の一部であるということを、身体(脳)のハタラキの強さに見せられる。

機能という仕組みは、自然とその状態に合わせて働くようになっているのだから、その機能を活かしてこの自覚側の”自分”がそれに沿うように活動することは”自然”となる。

”分かる自分”という意識ある存在が強いほど、機能側の存在を押し通せる強さを持つため、機能が破綻することもある。

ハタラキはいつも、現在の状態を如実に伝えてくれていると、強さを持って自身を壊した経験のある私は痛感できる。またの名を無知という。

(メモより)


ワンコのことで”食べ物(栄養)”の事を少し読んだりする事が、最近はボチボチあるのだけど。

”これをあげたら良いか…”と思うもの単品では良いのだけど、元々の目指している状態へ向うためのその”良い”は、トータルで見ると減点部分の働きとなる可能性が出たりと、「少し調べる」なんて程度じゃとてもじゃないけど追いつかないと思った。

何かそれを強調(サポート)することによって、絡む他との調整が出ることの難しさをしみじみと感じ、知ったことで知らなかったことを知る。

小さく下手に手を出すより、(療法食)フードの割合を変更して与えている状態で身体の変化を少し観た方が良い、という所に戻る。

糖尿病用のフードと言っても、成分は大きく違っていたりでその意味も少し分かるようになり、「考え方、想定している状態が違う」という風に思った。

言葉に持つ意味から入って行かなければならないのだけど、どこかでそこから抜けて「観えていること」に侵入しなければならないように感じている。何かの行いの結果に”現状”があるのなら、その目の前へのフォーカスから少し戻って考えてみることは、前進のための手段だと思っている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!