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世界は認識されない”私”でもある

私は特に、普段から物事の解釈を頭の中でイメージ、”映像”に変えて理解することが多い。

会話の中でも初めて聞くそれを、その並べられる言葉を組み立てて自分の中で”・・・、こんな感じかな?”という仮の当たりをつけて、「こういう事ですか?」「こんな感じ?」というこちらからの説明、言葉に変えていく。

「映像」

これが私の中で言葉以前に、言葉とともに重要で、これがハッキリしないものは、私に認識されにくいということ。これが昨日の、「その事と、周辺が結びついて…」としている部分と重なっていて、昨日の話は逆の流れだけども、”繋がり”としては同じことなので映像の認識が鮮明でないと言葉が出てこない→思い出せない、と思った。

分かるために必要な情報と結び付けていないと、それ”単体”となってしまい、それが”何”という事が分からない。目には確かに映し出され確認できているけれど、それが「どういうモノ、意味を成すものか」ということの結び付けが行われず、ただ映されたソレだった。つまり”分からない”。色の区別があるから”すがた”を見るけども、私に意味のある柄としては手渡されなかった。

”それ自体”は意味を持たない、という事だ。

・・・

「悉くかよ…」のところ。
今”何か”にフォーカスしてしまっているソレを、この”私”が、外してしまっても良い、ということ。”悉く”という感想、印象も、私が感じるもの。

何かに強くフォーカスしている状態は、自分の内側の、奥の大切なことと結びついている事もあるけども、これはそれを言いたいのではなく、私がその言葉を使った①、その前には目の前の現象をそう捉えた自分がいる②、と手前から遡って行き、そのトータルを見て、「これもフォーカスを外せること(所)だな」と感じたことに触れたかったもの。

(自分にとって)自然であればその様になってしまう状態を一旦はそのままに流してしまい(こなしてしまい)、自分が「見れる」状態をつくる。言葉(説明)は後付けなので、メモを通して見た時に、”流れ”というその全体がこの”私”に見つかって、「そこも他の選択ができるね」ということを拾っている。あくまでも「流れ」はそのままに流してみなければ、意図的な自分が入り込んでしまう。

これに関して少し前に頭に引っかけていた事は、私がよくする表現の中に「やろうとしてできない、何らかの事象がある」というものがあって、確かに”私は”、そう思っているのだけども、その時は逆の見え方が頭に引っかかってくれていた。

⦅自分の意思でなんでも当たり前に”やる”人にとって、これはとても不思議でしかないんじゃないか…?出来ないって何?ただそこでもやれば良いだけでしょう?、と。⦆

それがあって、淡くここへ連なって来ているかもしれない。

私は、この何ともハッキリとよくは分からない”無意識”と言われるこの存在が好きで、言葉で幾らか説明されるその状態というより、この何ともハッキリとは説明されない状態に関心が高くて。だから会いたいのだと思う。

誰かにとって、私の”何か”はまったく見えていないまたは、不要な縛りでもある。自分自身の大切な拘りという在り方とは違う、ただ自分の中に”自然にその様にしてしまう状態がある”という事を知ったのだと思う。

その考えられる所で、自らその線を切っても良い、という選択の自由だ。

・・・ ・・・ ・・・

昨日のnote全体をざっと読み返した時に浮かんでいたのは、

全部「私」を書いている、どこを現わそうともすべて、「わたし」というものを書いている

と思った。

これがまた今日(昨日のこと)これを書いて感じる事は別のことで、「(自覚上の)私」というものはどこにもないという機能に寄った状態とは違い、その”書かれたもの”を取り込む(読んだ)時には、”全部が私だ”という所有が引っかかっている状態だった。

やはり私はいつも、この私を追いかけてしか視ることはできない。その時はいつも外の世界と共にこの自覚する私は別にして過ごしている。それをたまに、この自覚する私が気づいてそれを捉える―――。”気づく”という事は必ず後ろにズレた行為になる。


ちょっと暈すような言い方になってしまうけども、「”外”に、私の表現を使う」というこの言葉をメモしているのだけども、この言葉に集約しているように思う。

外に映るその世界を見た時、私の見る限り”私の表現”が使われる。私の中にある、知っている言葉で現わす。私が選んだその言葉を使って出力する限り、外側の全ては、つまり「私」である。


先日、主人との会話で初めは噛み合わなかった。

「よくさぁ、じいちゃんばあちゃんは責任ないから孫は可愛いって言うけど。じゃあ、親が、”責任持って子育てしてる”人なんて、どれだけいるの?いないでしょ??」

と言ってきて。それに対して私の普通な当たり前の説明を返答した、「親はそう思って子供にやってあげるでしょうよ?じっちゃんばっちゃんは”子育て”終えてるもんね?だからそういう事じゃないの」的な。

ところが。

主人はその返答に、もっと自分の思う詳細をしっかりと話してきた。それを最後まで聞いていて、「なるほどね、そういう事か…」と話は終わった。


言葉のやり取り、何往復かだけでは呑み込めないと思った。その人がその言葉・表現をどのような解釈をして使っているかという事を、主人の説明によって理解した。

なるほどね…で終わらせたのは、主人の言うレベルまで”当然”としてそれを行う人はあまりいないかもな、と思ったので。動作の部分で当たり前に身につけている事に関しては、あまり表面に上がらせない方が、”一般的な会話”としては通りやすいだろうと思った。別の言い方をすると”細かくなりすぎる”、というやつ。

言葉の意味、表面から入り、重ねるやり取りでその人の話している位置を見つける。主人は他者の言うそれに意見しながら、「自分の居る場所」を現していた。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!