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未知のサイクルは”逆”

どんどん、奥の、中の方へ入って、今までの色んな事が”分解”できると知って。(そういう期間・時間があって)

それは全てを知った事には全くならないけども、だけどある程度のボリュームをこなすと、やはり感覚的に「分からないからやっている・ただそこに突き進んでいる」状態から、「そういう事が言えるよなぁ…」という所に入って行く。

ものの見方・捉え方は、意図・意識して変えて行く層と、自然な流れのままにその様に見えてくる・感じてくるというものがある。今この表現自体は目に見えていない”内側”のことを書いているのだけど、私はこれも十分にこの中に「内・外」を感じている訳で、人はかなりの層の中で思考している―――それを端的なひと言で表し、書くことはできない。

故に”言葉”はあくまでもその状態をしかも一部を現す手段に過ぎない、という所から、どこかで転換する・される、していくわけで、これが少し前に書いた「言葉の意味を抜けていく」ということとも重なっている。この”言葉”の持つ意味から離れない限り、この”状態”は見えてくる事はないから。


私たちにとって、言葉は大変重要で大切なことに変わりはないのだけども、この平面的な言葉にハマってしまうとモノゴトは見えなくなってしまう事も本当の事だと思っている。

だから、「言葉で言われていること」が重要なのではなく、あくまでもそこに見える”状態”、そこから視えてくる(感じてくる)モノ、ということにゆくゆくは到達できれば良いのだと、私は思っている。

・・・

昨日のnoteを書いてから、頭の中に残ったものがあった。

⦅よく、”ここから飛び出す”、”外へ一歩出る”みたいな…、そういう事を(私は)書いてるけど、同じじゃないかな…?この内側を広げれば拡大であるし、”向こう側”へ行って云々は、今までの自分を観ている状態でもあるけども、「分けて」いる状態の表現だよなぁ、これは…⦆

表現上、部分を表していくには、何かどこかで”区切る”ことになるわけで、それがまた「何かに焦点を当てている・合わせている」という事になるのだけど、これがまた、部分を強調している事に自ずとなってしまう”読み取り時”の仕組みがある為、言葉を使って表現することには分けた考え方・捉え方が生まれてしまう。


じゃあ、それを隣接する部分を次々と言葉で繋ぎ合わせていくとどうなるかというと、これは非っ常にくどいことになる事は想像できる。だから具体から抜けて抽象的な状態を言葉を使って表現するか、画・映像など、具体的にされないその状態を感覚から捉える手段を使うことで、表面的な言語解釈より奥へ入り込む、のだと思う。(←ここの部分*、今朝(昨日のこと)起床前に頭の流れに視たことの一部と重なっている)

こちら側とあちら側という、”個と全体”という区別らしき認識ができるという事は、自分自身の思考を分解していった事によって分かったわけで。そして幾らかの時間、その、こちら側とかあちら側とかの、それが見える場所・居場所からの解釈される景色を言葉にし続けたわけで。

すると今度は当然、”この私”がどちらをも見ているわけで、「(両方の)その全体」というものを見る位置に”上がる”…。この”上がる”状態を俯瞰と表現することは想像に難しくないと思う。

(追:↑と↓で”俯瞰”の表現を使っているけども、下記の”通常の現実世界で”という言葉を簡単に挟むだけで、アタマに視ている世界を替えてしまっている)

通常の現実世界で「俯瞰する」という言葉は存在していて、文字通りそれを上から見るのだけども、その範囲自体が広げられた俯瞰があるかなぁと。

ここ迄の表現の流れの中で、私の視る位置はクルクル移動しているのだけど、この肉体はここにある状態のまま、”その感覚”から書いているのだから、頭の中には沢山の居場所を作ることができる、というか、視座・視点などの言葉があるね。

で、その「空間の移動」という(思考的に分けたままの)感覚から見ていくか、「意識の持てる空間を思い切り広げていってしまうか」という侵食させてしまう(ようなイメージ)で見るかで、「どちらがどうこうという事は何かあるか…?」という事が頭に残っていた(この時点でしっかりと結論しようとも詳しく考えようとも思ってなくて、下記に続くものは、現時点で”浮かぶもののみ”の表現。私自身に”材料”がもう少し必要な状態だと思う)。

自覚の意識下で、見えない(見えていない)ことなどに関心を持たない様な人々にも、「同様の感覚がある」ことを感じる事はとても多い。そういう事を知っていなくても人には経験で回しているうちにその中から拾えるものがある事を学習できるからだと思っている。

もちろん、知らない世界の知識や情報があれば、更にそれは深く・早くなることは当然だと思うのだけど、それこそ「自分」という存在を使って認識されることを”外”から得ることで、”内側”へ繋いでいる。(外:「自分」を使っての話なので、この”外”は、自分の思う・考えるの外側の意味。思考外の”?”から、後に自分で思考をしていくという、逆向きの話)


そういう感覚、回すサイクルが形になってくると、考え方は同じなのだから、大きな世界・自分を含んだ外の世界との考え方や処理の仕方も想像がつきやすくなるのではないかと思う。

分かる為に、分けて考えている。
大きいままで考える事は、範囲が広すぎて難しいから。
分けていた事をもう一度しっかりと重ねていく。

・・・ ・・・

(ここの部分*)

これは多分、頭の使い方(の個性)があると思うのだけど、具体的なことで細かく解釈せずに、流しているその状態から吸い上げる(括れる)ものを掴むという程度のことで、具体的にするほどに、”意味”との紐づけが強くなるため、縛りがアチコチに出るように思う。

そういう所から繋げていき、頭の中で展開させていくという事が頭と合っているという事もあるかもしれないけども、私の頭からの表現なので、具体的な言葉で流されているそれをザッと、この頭で捉えられること(括られたもの)、その程度の理解・解釈を、起床前のアタマに視ていた。

具体から上げていく抽象/↑の向きと、集まったもの(括られたもの)から具体的に落とす/↓の向きと、人の個性(頭の得手不得手)があるだろうと感じている。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!