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色んな選択があると知ること

6/30メモ

もしそれが、何の矛盾のないその中でいられるならば、人間じゃないかもしれないし。

人として生きるというのは、”矛盾の中で生きる”ということ。

時にしっかりとぶつかり合う、タテとホコに出会うという事は―――。

人として生きている瞬間だという事は言えるのかもしれないね。

そして。

自分の中のソレに出会った時というのは、どちらかに逃げれば(行けば)良いという事になる。

どちらも抱え、拮抗するから苦しくなる※

苦しくなったら自分の快へ大きく傾けること。

そこからまた”矛盾”の中に戻って…と繰り返せば良いんじゃないかね、

人生は。

・・・

”矛盾”の多いこの次元(世界)の目線のまま書いているもの。私達「人」の住む世界は各々の重なり合いで沢山の世界が重なり合う複雑で矛盾だらけの世界。

その”次元”だけで「どちらが良いか」と考える事はとても難しく、ムリ・ムチャと考えた方が利口。

少し次元を上げて考える事で”具体”から少し距離ができ、幾らか縛りがゆるくなる…、すり合わせ・全く別の解(案)など、今までのどちらか色を薄めた分、他の要素を含んで新たなものが観えてくる”可能性”を探る作業。

(という様なことを昨日も書いた)


”※”とした所は、これはいつもの、自分自身に対しての「向き合い」の話ではないので”苦しくなる”とした。

”向き合い”の内容で書くなら、「そこにいてみ?」というもの。

自分の中に何か互いが引き合ってしまう拮抗した状況があった場合、そこから安易な快楽で誤魔化すのではなく、その状況に苦しむ自分を探って行くという作業に入る機会の為、分解して観るとか、その”苦しく感じるコト”を感じてみるとか…。

何か向かう先、得ようとしている目的によって、自分のする作業は変わってくるので、「同じ状況・状態」があった時、自分の目的をしっかりと見ること(確かめること)はとても大切と思う…現にこうして目的によって行いは変わる。


7/1メモ

”結局” ”やっぱり”―――。
って、どこかで書いたかな?

それが出る時に感じるのは、「自分を信じる・信じたい」という声の表れだよね。

自分が自分によって”ほんとに?”と訊ねることと、中身が全く違う外からの問い。

でも、実は全く「問われてなんかいない」。

自分の自信のなさによってふらつく時、その外の存在・情報が、その様な立場のものに見えてしまう。


”私”というモノの存在において、何の疑いもなければ”外”と言う場所の存在によってふらつくことはない。

だけど。

私というモノの想いや考え方などは、正しいと言う訳ではないからそこが難しい。

自らを問いで揺らす事ができなければ”個”から拡がることは難しく、それでも”関係ねぇ”と言ってしまえばそれは個として鋭くもあり…

しなやかな強さを手に入れる迄には、結局あっちへこっちへユサユサ色々と揺らしながら進んで行くことが必要になってくると思う。

窮屈を感じたら、状況にユサユサされてみて。

時間という道のりに任せてみて。

”そこ”に留まり続けることで頑なになっているのだから。

そんな自然的開放も、人ができる選択のひとつだと思っている。


7/1メモ

他人との営みの中の、「重ね部分」がなくなる事を恐れない。

他人の生きる道として何か”営み”があって、

自分の生きる道としてまた、別の営みがある。

他人のそれの中で、自分を表そうとする舞台違い。

自分は自分のステージで踊る。

広げた互いの円が重なることが自然な共存。

・・・

人の数だけ様々に「営み」がなされている。

この世の「生きる」という事はそのベース、大元だと思っている。

メモは、その様に視えた(感じた)ままのイメージだけども、結構「自分の円」に収まっている事ってカンタンじゃない事なんだと思った。

それはそれぞれのその一部分の重ね合わせが確かにそこにあって、色濃くあった共通部分なんだけど、自分の円が移動すれば、円の動き方によっては濃淡にも移動が現れる。


それは自然な事と思うのだけど、そのズレた事に対して、自分が他の円の中を借りて”自分を表そうとする”事だけが強調されて行くとどんどん自分の円から外れることになり、自分を表しているにも拘らず、自分の”中”が薄くなる。

誰も何も悪い事が起こっているんじゃなくて、やっぱり「ステージ」が違うという事になるんだよね。


やっている事は自分のできることで、そこに何の問題もない事。なのに自分の”中”が埋まらないという現象を観る(ことになる)。

単に、”居る場所”が違うだけなんだよね。

”単に”と書くけど、この事がとてつもなく効いてくることなんだよね。

最近、私自身が発信に於いてその様な内容を匂わせて書いてきているのだけども、例のごとく自分の内側を観ていくと、上記のメモのイメージに当てはめる事ができるように思う。


現実的な居場所、という事ももちろん同様の事はあるのだけど、私はこの”意識上のこと”という在り方・場所というものをかなり明確に感じている。

これは「行い」という動作部分のことでなく、その元になる自分の意識の状態のことだから。この習慣になっている”意識状態”によって、自分の円からのズレを実感する事になる。

やる事は変わらない、場所・ステージが違うだけ。

そんな事を感じていた。

やった事がムダになったと感じるような時、自分の居るべきステージから離れてしまっているかもしれない。

人は皆それぞれが、花開く固有のステージを持っている。

自分の舞台に穴を開けちゃいけないよ(*^^*)


社会の言う「貢献」に惑わされないで。

自分の舞台で踊ることでそのカタチは達成されている。

”自分を優先”にしなければならないと書き続ける理由は、殆どがこういうケースで傾き、崩れてしまうから。

他が悪い訳じゃない。

傾きが大きくなりすぎると、他者を悪者にし始めるから。

自分の立て直しが大切、自分の「快」を。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!