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砂時計⌛

いつかなぁ…。

夏ころだと思うけど、標識のシルエットにすごく惹かれて見入って。

だけど、私はスマホを持ってワン散歩に出かけないので、撮りたいと思うも忘れ続けていつしかそのままになっていた。

「大きい所から下ろしていく」という様な内容を書いた時、脳内にあったのは「砂時計」だった。メモ帳のスクショでいってしまいたいのだけども、あまりにもミミズなもんで(笑)

補足の方に時間を取りたい、それだけバラバラな内容になっているのだけども、上げる事で促したいコトも目指して書きます。

・・・

10/24メモ

「大きいモノから容れる」私の性格

(砂時計の手書き図)

形は砂時計。
A・Bと上下の位置が決まっているものとして、Aから下へ進んで行くもの。それは下に溜まっていく。

で、ここから「逆に」考えられたこととしての”話”。

ひっくり返すことはしないこの形のままで、Bはどんどん消化していく、「Bの中」を。砂が勝手に上へ持ち上げられることはなく、また基本的には上へ吸い上げられることもない。


人の考え方のスタイル(タイプ)として、形は砂時計として視ていた。

これは完全な、ほんの一瞬だけ感じた仮説として―――。

↑の動きと↓の動きとがほぼ丁度のバランスが取れた時、クロス部分は極小の小さな一点で交わる時、実感のない(あるかも)、最大の変化が起きるのでは?と思った。

実感がないのは当たり前、こんなに小さな点(瞬間)だから。

そしてこの点に、両方が差しかかるまで(出会うまで)は、両者は全くの反対の位置にあり、位置だけでなく仕組みが逆のため、反対側を理解する事も非常に難しく。


だけどそれを止めない限りは、接近する事ができるのではないかという事。

この砂時計は、サイズを変えて最大にして「世界」、人に当てはめ「自分(個)」、と観ることはできないか…と。

ここは少し”?”だけども、それぞれがある状態の方が、その点へ近づく事がもしかしたら速いのではないか?

ちょっと、そんな事を書いておく。

・・・

まずね、そもそも。

こんな事を書いてしまうこと自体が、結構勇気がいるのですよ、意外と(笑)

自分のアタマの中は視える(感じる)範囲で言葉にする事は一応可能としても、理屈としてみればもう「何言っちゃんてんの?」とツッコミたい自分もいるので。


だけど、冒頭に書いた通り、この状態=段階、で一旦出しておくと、次に繋がっていくものを自分の想定外の所から持ってきてくれるので。自分が「そう思った」以外の所から何かが入る状態を作るためのものとして晒してしまう、という事です。

で。
ここから補足(言語へ換える)を書いていく事がやはりちょっと難しさを感じるのだけども。

まず初めに。
視えたのは”上から下へ落ちる砂”というだけであって、それ以後のメモは「そこから」考えられた内容(想像)ということ。

いつも”上から下へ落ちる砂”の状態はイメージそのまま。その落ちた砂を一つ一つを消化していく。下へは徐々に砂が溜まっていき、通常の私たちの頭の使い方として書いている。


ここからの補足は想像より妄想の域。

砂が全て落ち切らない、その途中。正確な事など分かる訳もないけども、「丁度同じ」位になるその点という瞬間。そのクロス部分の「最大の変化(点)」とし感じている。

いや、もうこの辺は”その映像”からは「勝手に言葉がついていった」というだけで、事実でも何でもなく、また矛盾を含んでいることは十分に承知の助…その上で。


それ以後のメモが大分”理屈寄り”な内容になっているのだけども、今度はその砂時計を恐らく、

「(その時点では)砂時計の画は既に脳内から消して、形態だけを残像にしながら。しかも今度は「横」にした状態を視て”考え出している”」

という事が、自分自身なので分かる。

(と、途中まで日中に書いておいた。そして夕方、横になりながら全く何の関係もない記事を半分眠りながら目を通す。そこに“砂時計”、視えた。「やっぱりどっちもあるんだな…」と。これに関しては“一人の脳内”という感じだ。崩されていく方向↓と、積み上がる方向と↑。「要点」は既にそれ以前に細かくした砂達の“経験”がどこかにあって。それが既に折り畳まれて見えず、姿を変えて「直観」から要点が分かるようになっている。そう視えた。ここでは砂時計のカタチはイメージとしてありながら、ABという分離は特になされていない)

・・・

これは。

この上記したカッコ内のことの”引き出しが目的”でここはまとめて良いのか分からないけども(そんな訳ない(笑))、一先ずここで括ってしまいます。

これまた別の内容でメモしている事があるのだけども、コトを掴む前に”前兆”というような欠片はやはり起きている、そう感じた。

ただ、そのボリュームが足りず、それが特定できずにただの出来事としてその時は脳内を通過する(前兆の段階では気付かない)。後に”溜まって来た”ことによりそれが「何か」の一部であったと、後ならば振り返る事ができる。そう思った。


私は「砂の落ちる砂時計」に感じたことを、自分の内側をそこに乗せるかのように自分自身に見せられ、脳内の映像を元についた言葉を出力したのだけども、カッコ内の様なことが「それ以前にある」と思った。

「大きい方から落とすこと」は私にとっては当然の思考と感じているのだけども、誰でもその様にしている部分があるのでそうである事も珍しくもないのだけども、でもそれ以前にその為の「素材」というようなモノたちが堆積した結果、という風に考えるのかと。

「メモ内容が違かった」という見方はしていなくて、視る場所(区間と言うか…)が異なった、という風に考えていて、どちらもその”場所”で捉えれば「そうだった」というものを観察したように感じた。


そして”そんな訳ない”としたものの、このメモとその補足内容の妄想を含めたこれら自体を、逆に「見せられた」ようにも感じた。

「自分(個)」と途中に書いたけども、もしかしたらもっと、全然小さな”単位”のモノとして観てもいいのかもしれない。

10/19メモ

矢印が行き来して自らを揺さぶることになる〔個⇔全体〕

恐らくこの往来をやっていると、少し表の意識はゆるむ。普段当たり前に「私」という個からモノコトを見る視点→の向きを、「全体」という所から視点を替える←。

それをやっていると少し、こわばりが解れるようなイメージがある。慣れないと意識がグラつき過ぎる感じも出るかもしれない(ので注意)。

意識が浮つく、ふわっとしてしまう時は、感覚を現実に戻すこと。

手で何かを触る感触をしっかりと感じる、嗅ぐなど、対象に意識を集中させて「実感へ」戻す。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!