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”自分”が安全な場所である事

昨日、ある記事の小見出しに

「対話する程分断が深まる場所」とあった。

”話せば話すほど、対話すればするほど対立や分断が深まる”。あるSNSをそう表現していた。”距離感のバグったおじさんだらけすぎる”とも。

「同じになる」と思っている前提、「正しい側にいる」という感覚。

そういう事を無意識に持っていることに、自分では気づかないのが私たちなんだろうね(*^^*)



話しはここから始まりまして。

昨日はここに肉付けしたはいいけども。

そして今日の音声noteで更にそこを補足し…。
「肯定していく旅」の方の肉付けに戻ります(*^^*)

・・・ ・・・ ・・・

自分を肯定していく―――。

というのは、”力”を付けていく事でもあるんだよね。

それが自分の思う方へ、その様に向けていく「力」ということだから。「実現力」というような表現でも良いかもしれない。

分かりやすく大袈裟に書くと、

ウソだった事も嘘でなくする「力」、吹いたホラを自らカタチにする力。

これは確実に「ウソもホラも」、実現させなければ文字通りの話になってしまうものだけど、それを自らを引っ張る”誘導”に使うというようなもの。「大ボラ吹き」なんて言われる人があったけども、それはうそぶく為でなくて、自身をそこへ向かわせる為の強いコマンドのようでもある。


で、元記事で書いている「肯定の旅」は、幾つかのカタチを視ていて、
自分を認めること。良い悪いではなく、「できる・できない」は現状として認めること。それが”分からないと”、その状態が続いてしまうから。そこから向けたい方へ向けて行く。

そして少し奥まった、こちらの方が私的に主眼を置いた話なのだけど、自分の「したい・やりたい」という事を、今まで様々な理由やルールの枠の中で選択できなかったそれらを、時に枠からはみ出しても「やってしまう」という事を「肯定する」というもの。

社会のルールの中で生きる私たちにとって、これはやっぱり難しい。だからこじんまりした範囲の選択をくり返し、個はどんどん小さくなってきた。


時に非難を浴びたりしながらも、自分にとってその選択を譲れなかった、押し切りたい強い欲望があった、など後で振り返ればまともに見ることすら恥ずかしいそんな事、自らの行い肯定していく。

自分以外の他(者)との関係が一切なければ、私たちはきっと好き勝手にするだろう。誰に遠慮が要らなければ、自分を押さえる必要など全くないのだから。

その世界で生きることから逃れられない環境に身を置く事になった私たちニンゲンは、他者との関係性を考えながら、それ以外の生き物の事も時に思い出しながら、共に生きていくことになる。

そう考えた時、なんて不自由な、なんて気の毒でもある個という存在達が、自らの縛りをどうしても振り解きたいそんな時だってあるのだと思う。


他者との関係性においては、あまり許されるものでなかったとしても、殆どが不自由な生き方の中で、自分がその様に選択した事があったならば、それは自分基準で良いじゃないか、そういう思い。

他者によって作られた世界のモノサシで生きる中で、自分を通すと決めた時、その時の味方は絶対に、自分でいい。自分の決めたことを他者を優先することなくそう出来ることは、勇気のあることだと思う。


よくよく考えれば、自分の世界においての事なのに、他者モノサシで生きる事がそもそもおかしいわけで、社会での生活における選択が、自分の”中”にまで浸食されてしまっているケースが多い。それを”自分”と勘違いしてしまっている。

恐らく世間から、常識知らず、自分勝手、協調性なしなどと言われるような選択をする時、それはれっきとした「私」の選択、意志なのだと思う。それが世間に受容されるかどうかは、また別の話。

自分の世界だけでは生きて行けず、必ず他者との関り、社会と重なり照らし合わせたりしながら生きる訳だけども、そんな不自由な生き方が多かった人生も、最後までにはきちんとオセロをひっくり返すように確実に肯定する、そんな想いをそこに視ていた。

・・・ 

自分自身を認められない、というのは、何かの基準と照らすことがベースになっているからで、これが自分と他が、ココという自分の中で一緒くたになる所だよね。

そして、「それはそうである」で単に終わらず、そこに引っ付いている”だからダメだ”、”何もできない”、”結局○○だから…”という様な、”現在地”でコトを終えようとしてしまう。それは”カンタン”な決着だから。

その分かった”結果”から先へ繫げずにそこで終わらせてしまうから、脳内の記憶は「ダメ」なまま更新されない。今までの”データ”を使い回す限り、再生は当然同じになるということ。

このパターンは勝手に再生が変わることはなく、だから「肯定していくことは”力”のいること」に繋がるのだけど、近い場所での決着から少しずつ距離を伸ばすことで、力は付いてくるわけで、その様にしている事で、段々と思う方へ向けて行くことも感覚的に掴めるかもしれないし、現実になっていくのがカタチで確認できるようになるのだと思う。


はい、ここまでこうして書いてきて。

それでも尚、自分のことなど一切認められない”自分”、という存在を確認したらば、「そんな自分」を認める。

今まで気づかなかった奥の自分が出るたびに、どんな表情で顕れてこようと、こちらの「私」に見せてくれた姿に変わりはないのだから。人生と言う長いスパンでは、全てのトータルは最後の一瞬にそう思えるだけでも十分。

「そんな自分だ」と、安心させることもとても大切だ(*^^*)

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!