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解像度上げすぎたら別の話…

「一度目」という粗削り。
これは、他の事でも言える事だと思った。

丁度、連日同じようなコトをくり返してくれたから。

違う言い方をすると、ソコに目がいく様になっている”状態”がある、ということだ。


《流れはこうして大きなモノからどんどん具体的に、そして”現実世界”に現されていく》


昨日のFacebookで、”しっくり来ていない”と書いたので、少し整形したいと思います。これもある一面、一部分。(この時点では)ここが一番気になっているらしい…。

昨日の記事はコレ「自分を肯定していく旅」


「(経験により)自分に取り込んだもの」が多くあれば、皆が全てこの様になると言う訳でなく、だけど、”ソレ”というものを素直に取り込めるという事は、自分という存在はそれに抵抗がない訳で、それに対して”反応”することなく呑み込めてしまう、という様に感じる。

主人の経験の少なさと同列に、”自分色”が強い人は経験が少ない、という事ではなくて、「それを取り込む時・その処理」という自分の反応が大きく関わってくる。


例えば、主人のそれに対して、私はどちらかといえば「あ、そうなんだ…」と、基本は呑んでしまう。あまり抵抗を感じない所は、子供の頃にもあった事を憶えている。

それは、「分からない」から。

”分からない事”は、基本的に素直に入れてしまう、という姿勢を持っていたと自覚している。だから一長一短、”バカ”とも言えるし”純粋”なんていう事も出来る。どの様にどの場面を取り上げて言うかだけ。

で、そんな私でも、”呑み込めない”時は、きちんと強い反応が自分の中に出る。この自分が「うん」とは言わないのだ。


私は「ニオイ」に敏感な所があり、自分が何か”拒否”するそれを感じた時は、息を止めて呼吸をしない。少なくとも吸い込むことが出来ず、「吐く」ことで自分の中に入れない、という事をする。

拒否的に思っているソレが間違えて、中に入る様な事があると、くしゃみが即座に出る。例えばこれは、自分の中に自ら”入れる”という意思(用意・覚悟)があった時にはその限りでないけども、”不意”というタイミングでは、ワン達の持ち帰り処理した後の”うんち袋”の匂いを嗅いでしまい、その様になる事が多かった。だから、現在でも息を止めるのは基本(笑)

例えば上記は、身体的な例だけど同じこと。

自分の中に「何かが入る」ということを”拒否する”ということは、確実に自・他が分かれていることを示していて、そこに抵抗がないという事は、混じり合える、という事ができる。


それがずっと続き、持ち続けているものもあると思うし(”分ける”必要がない)、経験により人は価値観も変わるので、ひょんなことから何かそのラインが変わってしまうとか、その様にして、自分のカタチの変化によって自然と”選り分け”が起こる事もある。

経験が多くても自分の中への”取り込み方”が人それぞれなので、他者のモノサシが幾らあっても、それに対して「分かる」人は、自分と”分ける”ことが出来るもの。そこは自分を認めるも何も、”ソレとコレ”を初めから分類しているように思う。

我が家の主人の場合は、そもそも幅広く経験をするタイプじゃなく、その経験という”呑み込み”も少ないと感じた事によるもの。また、別の回想話では、他のことが「何を言っているのか分からなかった」とも言っている。

ここもまた、「分からない」のだ。

私は分からない事はそのまま呑んだ、主人は取り込まなかった・取り込めなかった。どちらにしても、「分かる」という事以外は、自分の中からの”反応”が出てこないので、「分けることが出来る」というのは、ここでも高度な人の能力だと、私は感じている。


分けるという区別、分類ができるという事は、それらの違いを知っているから出来ることなので。それが細かく、どんどん細かく小粒になるほど微細な違いを知っているという事なのだろうと思う。

・・・。

もう、この路線に入って来たら、全く別の話で進んでしまったので、元の話が何だか分からないところまで走ってきてしまった(笑)

いい加減、ここいらでこの路線をまとめると、言葉にした部分、①主人の経験が少ないから…、②経験が多くても”分かっている人は…という表に出た具体的な説明より、どちらもそんなつもりなく(自覚なく)「自分が肯定されている」ということ。

①の自分の中に他というモノサシが少なくても、②のようにそれぞれを別個のモノサシで考えていても―――、結局は、自分の中の処理の仕方に依ってしまう。しかもそれは無意識に、無自覚に。


この「無意識・無自覚」によって周りの何かに一切の関係もなく、「不特定のそれができる」状態が、自分によって肯定されているとするならば、その無意識・無自覚から何かの拍子で外れた時、「自覚」に上がってしまう為、ここで”考える”という事が始まる可能性はある。

知らないでやれている事はある意味最強、そして自覚に様々が上がていても出来るならやはりそれはとても強い。

他を知ってしまい、自分が分かってしまい。それでも肯定し続けることはちょっとやそっとじゃ終わらない旅の始まりだから。

だから結局、今まで自覚に上がらなかった自分の一つ一つの要素を目にするたび、長い時間をかけて旅するくらいでちょうど良いんじゃないか。視野が拡がり色々を知るという事は同時に、必ず自分の小ささが対比として浮き彫りになってくること。

「それでも良いんだ」

と、経験が増え知っていく事により最後まで自分としての存在を、強く認め続けることが、それぞれに歩む人生なのだと思う。

・・・ ・・・ ・・・

”何か”を発している時、それはある一つの角度から見えることで進んだ話をするので、そこから見える幾つもの「脇道」はオミット、進むと決めた時は進んでしまう。

それが後に、いつもそこにフォーカスし続けている訳じゃないから、時がズレれば他の道・角度から見る事になったりして、それを加えていく事で”肉付け”され、後に”立体”へ。

また別の言い方をすると、まず線画は描いたので色付けをしていくという作業を重ねて明らかにしていく、という感じ。なくても分かる、色があるとより鮮明になる。


脳内がその様に働いている、なんて思った事も考えた事もなかったけども、今まで通り、内に観たことを文字にしていくという事で、やっている事は変わらないのだけども、毎度毎回、様々な気づきがあることに飽きずにハマっていられる幸せを感じている。


昨日の記事の最後に触れた、「カメラのレンズ」。

これは、今までにも何度もイメージされているものなんだけど、そのイメージが本当にその”絞り”の穴の中から向こうを見ている様な、そんな画がある、アタマに。

ジーッジーッ、とレンズ部分が絞られ、ここは暗いのに、その一点だけは、だからこそとても明るく明らかに見えるような…、その画から。

完ぺきな、それに関しては甘さのない絞りによってしか明らかに見えないものがあるのだとイメージした。ゆるめればその周辺は広く見えてしまう。

これは、自分の絞りの甘さを知ることでもあった。

全てに一長一短。
ピント調整は適宜できるようにしたい。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!