見出し画像

環境と引き合う”個”

この時期だから浮かび上がるのかもしれないね。

その「状況」だから、強く自然な”自分”が出せる、というのはあって。

何の問題もない時に目立っていられる人と、少し困難な状況にある時に、しっかりと”動作”が見えてくる人と。

そういうのは、軽い言い方をすれば「タイプ」、重い表現に換えれば「生き方」、という風に言えるのだと思う。

・・・

【世界が、世の中が不安定に見えるその時の、”人の動き方”で、身体のどこを使って動いているか(?)ということが見えたり。肚の強さ、重厚さ、氣】

一昨日にちょいメモをしているのだけども。

生きてきた中で、「自分がどういうシーンで、自然とその行いをしているか」という事は、自分自身を振り返った時に確実にみえてくる―――。そして逆に、どういう時にそれを終えるか、という時期も自然と見えてくると思う。


何かを始めるということは、とても前向きな印象もあり”良い”と感じ易いけども、だからこそ逆の「終わり」ということに、人は少なからず寂しさのようなものを感じたりもするのだろうけども。

終わりと始まりがいつも背中合わせという事を、私たちはあまり分かっていない。いや、全然気づいていなかったりする。

「個」にその様な特徴があって、それが「自然に行われている」と外部でその様にみえる時。確かにそれは個の特徴がしっかり出ているという風に見れるわけだけども、それが「必要な状態が”今”、全体にある」ということは同時に言えるのだと思っている。


これは過去にも書いたけども、私は今までの就業タイミングを観ると、”そこがあまり良くない時”に、引き寄せられるかのようにその職に就いている。それによって、入って早々に動いていかなくてはならない状態になり、のほほんと仕事をした事はあまりない様に思う(笑)

どちらからともなく「状態」として引き寄せられている。そう感じている。そしてその状態が落ち着けば、また”通常運転”ができる状態へゆるやかに自然と変わっていくので、その時は何らかの理由で私は「そこを離れる」という事を何度かくり返していることを自覚している。

「個」という特徴がそれぞれにあって、なにかそれが主になっていると思われるような動き・流れがある時。それという「個」の見方ももちろん良いのだけども、「それが活用される状態がある」という環境側(全体)のことが言えてしまう。

特に、”不安定”という様な状態であれば、「肚の強さ、重厚さ…」という、”氣”という目に見えないものの在り処が、とてもよく見えてくる。

”?”を入れたのは、「どこを使って動いているか」の表現が不確かだったから。身体を動かし続けた結果の、そこに集まっていった「氣」というものと、私の中の情報からはその様に解釈するけども、「身体」が必ずしも条件とはならない事も想像はできるので「?」とした。

いや。
人は、心の強さを「肚」に視る(感じる)から、こういう解釈になるのかな(*^^*)

・・・ ・・・ ・・・

「個」へ少し比重をズラシていきます。

上記の見方を”基本”にしてしまえば、「じゃあ、”何か”は特徴として、タイプとして決まっちゃってるじゃん!」という解釈になってしまうのだけども。

人はどうしても、「結論」を自分の身近な所に置いておきたいみたいで、その「結論から伸びる”枝葉”はないのか?」とはあまり問わない。

「自分に問うてみてもえぇんやで?」

と、どこかの知らんオジハンかオバハンが、自分の内にいることを意外と知らない。私もそんな人達は知らんけど(*^。^*)

でも意外と、自分は自分に対して「問うこと」ができるんだよね。


オジハン・オバハンには少し眠ってもらって話を進めると、そういうタイプ・特徴があるのは事実としてそれはそうで良い。そこで片付く話。

で、それはベースの努力感なしに出来てしまうような「部分」というだけであって、自分の「上」の階層があるという事をまだ知らない状態。「私」という個人は私の全てを知っているなんて到底言えないわけで、もっと言うと”知らない事で終わってしまっている”、という事がとても多かったりする。

子供に色んな事をさせてあげるのはナゼでしょうか?

オトナにはその可能性は消されてしまったのでしょうか?

私たち大人は、何らかの理由を持って諦めてしまった事が多くある。その理由は、”その時”にはそうだったかもしれない事も多く、それは現在には全く関係のないことになっている事も多い。

何かに関心を持てなくなってしまう原因は、色々なモノを引っ提げている重さからのものもあるけども、実はこの「自分自身の想い」による制限の重さかもしれない。

環境はいつも同じという事はないので、始めるー終わらせる→新しい始まりという流れを自分の中に作り、色々をやってみないと「上の階層」というものに出会うことはないんじゃないかと思う。

何かをやっているうちに、それに付随して視えてくる”特技”が見えてきたりと、「何かをやってみる」ということは、いつも大切なんだと思っている。それによってまた、「やっぱり”その質”を持っているよね」みたいな、「個」に還ったりと、結局、何かをする事によってしか自分というものはヒョーゲンできないのだと思っている。


本当にすごいな…、と思う。

”砂時計”の記事を書き、昨日は全く、本当に全然違う角度から「シェーマL」の図を目にして驚いた。砂時計じゃん!と。

その図の存在のみならず、ライブドアブログに書いた内容のこともあり、色々が、私には全く関係のないこととは思えなかった。

もちろんこれが、「他者(主人)」のことをきっかけにこの目にしている「自分のこと」という内面も観察の最中で、知識を持たない所からその知識が情報として入ってきてくれた、と感じている。

勘は多分鋭い方なので、それこそ全然無関係の場所の”その言葉”に「これ」というフラグが立つので、そこから入った結果にこうして繋がって来ている、「私の得意パターン」でもあります。

見えない部分が見えてくるおもしろさは、ココにあると感じている…、知らんけど。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!