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言葉に適した空間がある

私たちは、意外と結構、自らの力で自らを動かすという事をしていないから。

自分の内側に生まれた何かその熱は、きっかけとして転化した方がいい。自分を動かす燃料になるのだから。


先日の「書く」としたものをちょいと書いて行きます。

外れていった理由はその最後に触れた通りではあるのだけど、今思うのは、通常ある自分という”軸”、そこから外した目線に持って行かなければならないので、恐らくそれがその時(の頭の状態では)難しかった、ということ。

そしてその状態も、”書く”という動作をしているうちに、しっかりした意識が立ち昇ってしまう為、また実際にある”現実”の世界の映像はとても明確・クリアな再生のため、簡単にそちらに引っ張られてしまったのだと感じた。

ここでまたこれに触れていると内容から遠ざかるので、理由はこの辺で終わりにします(笑)

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通常、自分という目線が当たり前に普通としてある訳だけど、そんなに長い時間じゃなかった、頭に浮かんだそれは、「外」から見ているものだった。だから、『普段の”自分”①と、その外側を緩衝材のようにある空間②と、完全に外の世界”社会・世間”③』というこれらの関係の中の②を部分の「自分」を書き出そうとしていたもの。

そしてその②の話をするには、この①③との位置関係を示さなければ少し分かりにくい状態があった。それを単に”外側から”とか、この記事の「表現自体にも緩衝部分が必要だった」ものが、”表の表現”が多くなり、脳内に視ているものと、表現の差が大きくなってしまった。この頭の中の”不一致さ”というのも結構負担がある様に思う。

逆に言うと、脳内に自然な組み合わせ、その状態があれば、この表の言語(言葉)を使っても自然とその空間を表現する―――、少し現実世界の表現に替えて行きます。


どの層(空間)で見たものか、それをどこから見ているものかという事によって、それを表す言葉は変わるのだけど、それを表現する言葉自体にもしっかりと”意味”というものが存在してしまうので、その意味から捉えること(表側から捉えること)で、この”差”に関して矛盾したようになる。

ただ、人は、表からでは見えない部分で、”主”自体を変えることを自然と行っている(私はそう思っている)ので、そちら側(見えない所が側)から見た表現としては、常に本音(正しく)となる。それらを他の何かと混ざることで”建て前”という表現の仕方=ズレを表現した。表と裏にヒラヒラと変わる様な感じ、そんなに頻繁に切り替わるものじゃないけども、その入れ替わりはそう表現することが出来た。

(そしてこのこと自体が、”入れ替わり”と表現していながら、例えば”自と他”というものを時に自然と入れ替えることが出来るという事は、その状態は一時だとしても”区別のないもの”として考えることも出来る。脳内で考える事はいくらでも展開を広げる事ができてしまう…)


大きな世界と自分との緩衝部分を人は持っているんじゃないか?それがある事でそこによって調整されるものが事実あるんじゃないか、そう思う。その部分が希薄な状態・ない状態というのが”極端”となる、そう表現できるんじゃないかと思う。

昨日のnoteの一部分で言えば、自分にズレを許さないこと、それが関心事や自分の最大という様な表現をしているのだけども、何か自分の深い所と外の大きな部分とに”あいだ”がなく、直接に接地しているような状態か。だからそれが自分にとって”大きなこと”というものになる。

そこから”自分”を外せないことの中身はどちらの面もあり、それこそが自分の大切なもの(こと)であったり、だけどそれはただの強いクセ(習慣)である事もあったり。そういう事を観た時に、その中身を確認した方が良さそう…、となる。

自分にとってのソレが、「その理由が分かる」と自分が思えるならば所持に値すると思うし、それが意外にも「??」であれば、解放してしまって良いのだろうと思う。「それはどちらでもいい事だ」と。

自分というものが、その様に外の世界によって自然と変わっていくのなら、それは「自分」と表現するのだろうか、「他者」というのだろうか。それがどちらとも言えない、どちらでもありどちらでもない、同じであって違う状態、がそこにあるのだと思う。

(”そこ”を現そうとすると、やはりそこには具体的な事象を現す場でなく、状態を表現できる場という違いがある為か、コトの説明が出来ていない。それが可能なのは、その状況を背景に持った事象があった時、その事象をそのまま書けば一番早い、という事になる。

その事象を見るまでは、頭の中を言葉にしていくのが精一杯で、普段の現実の出来事を自然に話す時に「勝手に出る言葉」とは、全く違うと感じた。もっと言うと。。。初日のあの程度の内容で、”ソコ”の説明は十分だった、という事に手を掛け始めている。ただその周辺を説明する表現はポンポン浮かんでいて、メモしたそれを続けて書くことは可能である(笑))


何をするのも、空っ欠では出来ないから。

この、自分自身を動かすでもエネルギーが要るもので。それがこの自分の内側にあるのだから、その使い方を少し知れば使えるかもしれない。

ただ自然に、全く自分に関係なく外へ漏らしてしまうのではなく、必ず自分の何かが消化(昇華)できるようにそれを使えたら、燃やすことなく溜まっているものを片付け、そこからまた生まれてくるもの…と循環ができる。

そんなサイクルを回すまでに、それが自然と回るまでが一苦労…、いや、なくならないんじゃないかと私は思う。だから”ポジティヴ”という方向付けがあるのだと思う。


その考え方は、正解という意味ではなくて、習慣から容易には変わっていかない流れを、その考え方をする事によって、「(それは)自分にメリットがある」という事を認識させるもの。

この自分自身への、本当のメリットさえ私たちは自分で認識できていない。それを考え(方)で補い、目指すは自然とその方向へ動作する自分をつくること。そう思っている。

だから、「考え」の中で止まったままでは道半ば。自分の人生を使い切ってもまだ足りない位に、動作は追いついていないのだと思う。

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!