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感情なんて変わるもの

新築のお家がバンバン建ち始めている。

今は地鎮祭はやらないのが多いかな?建築期間も短くてあっという間に出来上がる。

まだ外構は未完成の、その家にカーテンがぶら下がる―――、「一番嬉しいんじゃないかな~、忙しくなるけど(*^^*)」。私の心の中からいつも引き出されてくる瞬間。ニマニマしちゃう。

先日の、主人も一緒のワン散歩。

新築のお宅を見て主人が言う、「めんどくさいだろうな…」。

「え?その時もそう思ってたの?そうは見えなかったけど…」と、その理由を訊ねた。

「いや、嬉しかったよ。だけど、オレの部屋いつまでも段ボールがあったでしょう。片付けるのが面倒だったから…」

営業の合間に家に戻ってお茶したり、その雰囲気に浸りに浸っていた幸せ過ぎる私は、そんな事は全く知らなかったし、それを聴いて本当におもしろいと感じた。

誰も片付けてくれない荷物。自分が勝手の良いように片付け・整理するしかない。仮に面倒だけど、それに手を付けなければいつまでも「めんどうくさい」その状態はそこに在り続ける。

人って、どんな”思い”を引っ張り出してくるか分からないね。

そして物理的な話だけでなく、片付けなければ余計にそこに”上積み”されて行くことによって、もっと面倒なことになっていく。

本当に、人の行いと思いは”矛盾”していることが多い。

・・・

この主人の言った「めんどうくさい」という思いを引き出せた”シーン”は、私の場合は「もっと大分大分、後」だった。

書いていて、その最高に嬉しくてシアワセな時はやる事もたくさんあるけど、「やっちゃお!」という前向きな力で引っ張っていける。やる気を起こすまでもなく、「嬉しい」という喜びに満ちている状態があるだけで、面倒なことも処理していけた、ということ。

「気枯れ」

そういう言葉を使うと不思議系に傾くけども、感覚的に感じるものに言葉をつけても納得はできる。

嬉しい・幸せなど、良い気を感じているその中での事は、大抵エネルギッシュに何でもこなしていける。それくらい消費されるエネルギーなど屁でもない状態があるということ。

それは、脳内に充満しているホルモンで少しマヒしているからという風な言い方もできるかもしれない。そういう事で”誤魔化”されたベールの中で、事をこなしていく事が多いのが”現実”という世界なのだと思う。

それがこの”気”が枯れると、目立って来るのはただ面倒なことしかないし、引っ張ってくれるエネルギーがない状態だからただのつまらない”消耗”でしかない。


だから、ある意味主人の”めんどう”な思いは正直なもの、という風に言えるとも。それだけ何かの状態に包まれていなければ、人はこの現実などとてもとても生きている事さえ、酷なんじゃないかと思ったりもする。

「”現在の主人”の焦点が、ソレを引き出した」という事ももちろん言える。だって、”当時”の表情につまらなさを見たことはなかったから。

人が、自分の中から引き出してくるその「モノ」は、本当にある意味いい加減なものだと最近特に感じている。あの時と今この時。まったく違うことを真実の様に語ることができる・・・、脳が創り出したその時の”構成”。


記憶によっていつもそう思わされ、それをくり返すことでさも自分の中の「正真正銘の事実」として再生されている事に、私たちは気づくことがとても難しい。

だけど、その記憶「情報」は、壊れるものなんだと知っている事。今、こうして感じている・思っている事すら「自分の”思い”ではないかもしれない」ということ。

そんな事をアタマに引っかけておくと、いつかパカッと開くかもしれない(笑)それまでは私たちは事実、今こうしてウソ偽りなく感じている・思っている、と思い通すことができる。

そうでなくなると、今度は逆にもう「そうじゃない」方へどんどん要素は固まっていくから(*^^*)

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音声内容も含めてこの一日(昨日)感じたこと。

例えば私たちは、通常の一般的と言われる頭の使い方をしていても、「現実と妄想」の区別をつける事はできていないのだけども。

意識というのはそれだけ”もや”をかけるもの。そして”晴れた”と思ってもまた普通にそういう状態もくり返す。

個々に感じている「その脳内の様子」というものに、この表側で「それはカクカクシカジカでこういう風になっていたら現実です」と言葉で仮に説明はできても、個の脳内で「感じる」それとの照合ができない。それはその”個”の感じ方・表現が判断することで、一致させることが難しいから。


いや、ストレートに言うと。

本当に、人を意図的におかしな方へ操り、成り立つ世界が本当に心からイヤで、腹が立っているのだと思う。それでなくても人は勝手に殆どを妄想の中に存在して生きている事に気づかないというのに。

過去に強くそういう思いを抱き、そして現在までには、そういう事をするものに対して嫌悪もしてきたのだけども、自分の内側と向き合っていく中でスタンスは変わっていった。

その経緯を経ても最近強く感じることは。

結局、どれだけ仮に正しい姿勢があったとしても、勢力的に劣勢であるなら「力不足だろ?」という思い。色んな事に思う。力が足りないと無意識で認めている時、簡単な方法=相手の方を叩く、という事をするのだと私は思っている。


そういう非常に悔しい思いを経験して、自分に力を付けていこうと思ってやり続けているけども、世間から出てくるのはそういう事が利用(悪用)されたものばかり。

目にするたびに嫌悪するけども、明るみになる事で”そういう事がある”という周知にはなる。

そういう事が起きている事を知って、私たちは少し学ぶんだもんね。

(こういう事を何も考えずに動作している時が”現実”にいる時で、どれだけ”それらしい事”を書いていても、これは私のアタマの中ですよ(*^^*))

「うみのみかをサポートしたい」と行動させてしまう様なクリエイターです(*^^*)。私も同じように読まれた方のサポートになる事を意識しています。 自覚を保ちしっかりと進んでいきます!